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便利の落とし穴

海外から、今、羽田に着いたけど、山手線が止まってるらしいとメッセージが…じゃ、リムジンでショートカットするか?と時刻表をリンクしたら、そろそろ、運転再開しそうだという。昭和な時代には考えられないくらい便利だが、それは、わたしが昭和生まれのおばちゃんだからで、最初からコレだと、公共インフラの電源が落ちたらもうお手上げになるしかない。しかも、我慢する習慣がないので、すぐに文句をいいはじめるし、誰のせいか!となるにちがいない。首都圏居住者でなくて良かった😎
冊子の見出しに「感謝が足りないネ」と書いたが、最近の人々が小さな些細なことに感謝出来るようになるには、死にかけるとかいきなりリストラされるとか極端に差し迫った場面に陥った時に限られるかも知れない。ピンチはチャンスと形容されるのはこういう、ものの見方が激変するタイミングなのだろう。歓迎はしないが、そうなったら、もう開き直るしかない→気分や視点が変わる→世間も捨てたものじゃないのだなと気づく現象に会う、みたいなパターン。それを昔のひとは、可愛い子には旅をさせよなんていって、小さな、いつもの、習慣性だけで成り立つものは脆弱とわかっていたのだろう。
生まれたての赤ん坊は、顔がデカくて手足が短くて、ぬいぐるみ🧸のように可愛くて誰からも反感を持たれないスタイルで、自分では何もできないウィークポイントを(本人は知らないが)武器に変えている。これは、就学期くらいまではまだいくらか残っていて、無邪気でいいねぇとなる。それから、長い年月をかけて、わたしたちは社会脳を形成していくが、当たり前が実は当たり前ではないと気づく場面が少ければ少ないほど、イザという時、不適合を起こすだろう。生物的には、危機に直面した時、パニックにならずに冷静に対応できるかどうかが生死を分けるから、ボタンを押せば済むのが当たり前というのは脆弱を絵に描いたようなものだ。
最近、ソロキャンプ🏕️なるものが流行っているらしいが、それだって、100均に行けば、コーナーがあり、至れり尽くせり的にグッズが揃っているのだから、部屋でTVを見ていたのが、場所がちょっとヘンピになっただけのことかも知れないし、逆に、その辺に生えているキノコを不用意に食して死んでしまうひともいて、何だか極端やね?と揶揄したくなる。何でもタダで情報を入手できる時代なのに、山で迷ったら沢に降りてはいけないとか、初心者がこんな処に軽装で来てはいけないという(正しい)常識さえ知ろうとしないでいのちを落とすひともいる。救助隊が二次災害に巻き込まれることすらある。そんなニュースに触れた時、迷惑だなぁと思うが、よくよく考えてみると、自分も50歩100歩かも知れないと反省することもある。昭和な日本人は、人様に迷惑をかけてはいけないといわれて育ったが、悪い面ばかりでもない気はする。すべては程度の問題だから、どうにでも出来るのがいちばん宜しい(はず)。写真は大山、遠景


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