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嘘つきは大言壮語する

ついついタイトルにつられて、念のため最後まで見ても、そんなことはほとんど何もいってない、なんだ!時間のムダだったじゃないが、はなはだ多し、と晩酌の席で友だちに訴えたら、ホントほんとと同意を得た。YouTuberというひとたちも収益性低のご時世でたいへんなのかも知れないが、そういうのは、「節操もない」と(昭和なひとは)形容したものだ。けしからん、と怒るほどの発言権もタイトルもないし、何より怒ると疲れるので、やられっぱなしでもそっとしておく。しかし、自分も?な表現は気をつけようと反面教師にはなる。昔から、規模は小さいが自称転んでもタダでは起きない女ではあった。資格を取得したら、一度はそれでバイト代くらいは稼いだし、学習費用を全額回収できなくても、一応、無駄ではなかったと思う。
商売の世界では、期待値を上げ過ぎるのはNGとされる。自らハードルを上げ過ぎて、購入者の期待を下まわれば次はない。つまり、嘘つきYouTuberの明日はない。基本的にはそうだが、問題は、ほどんどの場合は、そこに真実など求めていない世の中だから、糾弾されることもない。視聴者が対価を直接支払ってもいないので、表立って問題にはされない。番組のゲストとそんな話題をトークしていて、つまり、教養がないってことですね、とおっしゃられた。わたし自身、学習量が圧倒的に少ない自覚があるし、教養といわれると自信がないが、まぁ、してもいいことといけないことの判断はつく。この場合は、憲法のような物質的な感覚の規制ではなくて、良心が咎めるとがめないということ。江戸時代、武士は喰わねど高楊枝といったし、庶民にも、そんなはしたないマネはよしなさい、というのがあった。もしかすると、今では、はしたなんて、みんな平等に反するというのかも知れないが、それって西洋式の損得勘定(隠れ共産主義)がベースだしね、と思う。男でも女でもないもそう。

岡潔先生の講義録を読んでいると、損得でしか考えられないのは品性下劣、教育のまちがえ、とくり返し指摘されていて、わたし自身もそれに毒されて育ってしまったなぁ、と反省する。もっともそれ一辺倒ではないし、子どもや高齢者、その時に困っているひとは優先という自発的秩序みたいなもの、暗黙の了解はある。それは、まだ、学校に通う前の幼い頃にすでに形成された意識で、生まれた時にはすでに備わっている無差別智が、そこそこちゃんと育まれていたことを示す。三つ子の魂百までという通りに。つまり、見せかけの謙虚さや意識的にこう振るまうべき、とジャッジする以前の、はしたないからやめようという純粋動機。道徳などといわれるもの以前に、2歳1ヶ月の自我の芽生えの時期に、それだけは諭し導かなければいけない、躾けや矯正とはちがうものとおっしゃっている。西洋人の心理学者の書いた育児書には、そんな真実は書かれていない。誰もそんな考察をしていないのだから。残されたテキストは、日本人を再生させる鍵だと思う。

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