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真実はひとの数だけある

土砂降りの雨には辟易としても(T . T)梅雨の晴れ間に葉っぱの雫を💧見つけるとうれしい気分になる。ひとそれぞれの上に瞬時に移り変わる感情に翻弄されて生きている。
この気分(表面的な感情)と対峙して、ちゃんと向き合って暮らしているひとがどのくらいいるのだろう。知らない赤の他人の呟いたことにいちいち腹を立てて暴言を吐き、それが当然の権利のように信じて疑わないひとが多い世の中になった。または、もともとそうだったものかSNSツールの普及で顕になっただけかも知れないが、一億数千万総白痴化かも知れない。便利は時にひとを滅ぼす。怠惰は退化にもつながる。書いていて自分で耳が痛いが、そんな世相のようだ。
まぁ、しかし、ソレだって、何処を見るか、何を真実とするのかは各人によるがら、誰もひとつの、oneworldに生きているわけではない。どんな世にもすばらしく手本にしたいひとはいるし、歳をとり経験を積んでくるといくらかは鷹揚に、丸くなったりもする。
さて、では、どんなこころがまえで自分と対峙すると良いのか? そのいったんをいくつかの話に書いて2つの小品にまとめてみた。

これは、わたしの幸せ感だが、ひとはその昔、マンモスを狩りしていた時代から、生命の危険を察知する機能(五感)が備わっているから、火、毒蛇、高所といった危機のシグナルをキャッチすると不安になるシステムが脳にある。だから、不安を感じないでのんきにしていられる🟰安全安心なのだから、基本的にはこれが満たされ、できればいつも平時と感じられることがいちばんいい。まちがった資本主義全開の世の中で、お金を稼ぐことがすべてに優先されるのも、実は、もし、◯◯ができなかったらどうしよう、日本人の場合はソレに加えて、ひとさまに迷惑をかけて揶揄されたらどうしよう、が上乗せされる。そんなことその時に考えないと詳しいことは想定などできないと思えない。常時、警報装置はオンになったままだからストレスでこころを病む。禍は天から降ってくるわけではなくて、自分が招き寄せている。頭では、そうね、ほんとそう、と分かっていても解除できない。規制、制約というのは、社会的なヘンテコな意味不明なものも確かにあるが、ほとんどは自分が自分に課しているから、その辺、ちょっとどうにかする方法がないのか、といつも思う。

そのひとつの指標になるのは、やはり、自然の摂理に従うことだろう。梅雨は苦手といいつつ、しかし、雨の恵みがないとお米が育たないから時には我慢するのも必要、と矛(ほこ)を納める。それこそ、お天とう様が見ているというのが、昔の日本人のスタンダードな尺度だったのだ。一方の西洋的な解釈では、自然はヒトに役立つために存在するもの、征服すべきものであって、みんな、みんな生きてきるんだ友達なんだぁ🎵と小林亜星先生が曲をつくつてくださって、無心に学校で習ったようなことにはならない。だから、環境との共生なんていう。バカなのか!共生なんてセコイこといわないで一体化しろよ、と思う。まぁ、すでに、明治以降の誤った教育で、わたしたち日本人もオリジナリティを失いかけているが…そういうことを書いてみました(^^)

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