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棚から牡丹餅瓢箪から駒

おととい、出張+1のおまけ(OFF)スケジュールを考えていて、神苑の無料開放年一回の、が目に止まり、ん?明日じゃないの?ということで9時前に到着…4月半ばに国宝燕子花図屏風をササッと観て庭園で和んだ記事をアップした際、池にはまだ数本の菖蒲しか咲いていなくて、ちょっぴり残念に思ったから、思いがけないめぐり合わせで、東京の仇を京都でとるみたいな流れに。
正確には、その間に、別府神楽女湖ver.もあって、高原のホテルに滞在していた際、車なら15分程度の菖蒲の名所(以前に行ったことがある)に行くのをあきらめたのもあって、2回の仇を一瞬にしてリベンジできてしまった。資本主義に毒されたわたしは、ここで、わー、なんてラッキー(ここまではいい)、結局は無駄なエネルギーを使わずに済んで効率的、しかも無料、といいたくなるが、それがいけません😎
そもそも、そんなことになるなんて、誰も知らないし、考えてもいなかったことが鍵🔑で、つまり、日常業務的な感覚からは生まれない、むしろ、意図することが逆の、自然な流れを妨げる方が多いということに通じるから。それが天の摂理、采配というもので、わたしは神様のお手配と呼んでいる。宇宙を統べる法則性の一端を垣間見る出来事というわけ。もちろん、量子的に考えれば、意識はエネルギーなのだから、こうなったらいいなぁ的に発信するのは悪くはないが、それ以上の負荷をかけるのはよろしくない。ついつい、そうなる(我を張る、欲張る)のが現代人で、その根底にはヘンな資本主義に毒されてきた歴史がある。いつもいつもそう思考しているから、その日1日を100%味わうことができないし、まだ足りない、努力しなくては、と強迫観念をぬぐえない。わたし自身も何十年もそうやって生きてきたし、結果が不充分なのは努力が足りないからだと信じて疑わなかった。そう、腑に落ちて、だんだんに矯正できたのはほんのここ数年の話。昔のひとは思いがけないめぐり合わせを棚から牡丹餅、瓢箪から駒と呼んだりしたし、けけけの毛虫アブラムシ、天の神様のいう通り♪と歌ってきた。つまり、本来のわたしたち日本の先人はそうやって生きていたわけだ。この200年足らずだろう、ヘンな方向へ行ったのは。
わたしがいつもココで目の敵にしている資本主義は、大英帝国の産業革命辺りから顕著に加速してきたつくられた概念で、冷静に考えれば共産社会主義に他ならない。その成れの果てが、食糧自給率が38%を下回るこの国の姿に見える。わたし自身は、庭のちょっとした土に何かを植えて育てるくらいでも根を上げてしまうから、とても自給自足は無理と自覚している。まだ、今のところ自然の片鱗の残る地方都市で暮らしているから、野山を散策すれば食べられる野草や外来植物なども見かけるし、それらは、たいてい油で天ぷらにすれば毒は抜けることも知識としては知っていて、遊びで試してみたこともある。遊びなら楽しいが、ソレが日常になるのはキツイと思うから、立ち止まってよく考えることだ。

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