芸術の縦糸をもとめて
芸術作品には縦糸と横糸がある、というお話。
織物は縦糸と横糸を編み合わせて生まれるように、芸術作品にもそれは言えること。その場合の縦糸とは「天と地を繋ぐ力」、横糸とは「人間的な力」なのだそうだ。
天と地ってなんぞや? これがちょいと難しくて、私なりに解釈したものだと、地は人間・作者を含めたすべてのことで、天は目に見えないもの・神的なもののことらしい。
天衣無縫と言うように、素晴らしい作品は人間以上の、なにか大いなるものの存在さえも感じさせることがある。ゆえに縦糸をもつ作品とは、なにか大いなるものを感じさせる作品。
横糸をもつ作品というのは、流行を穿つ作品のこと。
縦糸をもつ作品は、時代を越えて残り続ける。
横糸をもつ作品は、一時代を風靡する。
じつは、この考え方を教えてもらったのはつい最近のこと。
世界的なキルトアーティストであった秦泉寺由子さん(現在はキルトを作られていないとか)の布に触れる機会――文字通り、「触れる」機会があって、初めて知った。
それまではキルトとか布なんて、ただ巻けばいいし羽織ればいいし敷けばいいもの、としか捉えていなかったのだけれど、秦泉寺さんの布は、それを許さない。
こころを包んでしまうのである、文字通りこころを「包む」のだ。
そのときのことを、そのまんま書いてみよう。
知人が所有している秦泉寺さんの紅色の布を袋から取り出した瞬間から、それを羽織ってみたい、と私のこころがざわめいた。羽織ってみたい。触れてみたい。布を見て瞬時にそう思うのは生まれて初めてだ。
手に取らせてもらって、恥ずかしくなる。こんなに良いものを、私が羽織ってもいいのだろうか。布の良い悪いなんて、分かる審美眼を持ち合わせてもいないのに。
「いいですよ。」
羽織っても構わないですか、と許可をとる私を面白く思った知人の笑い声に導かれて、紅色の薄い布を羽織った。
両肩から羽織ったのだが、するとこころがほうっと和らいだのだ。感覚が、羽織った重さや柔らかさなどの身体的なところから、胸の内、こころに自然とシフトする。
こころを囲っていた檻の鉄格子が、麻糸になり、ゆるりと解けてしまった感じ。
こころの底から満足する、という経験を、初めてした。
布が好きだったわけでもないし、ましてや服を身にまとって幸福を感じる質の人間でもなかったから、なぜその布をまとって満足したのか、理由はよく分からない。けれどいまでも、秦泉寺さんの布は、大好きだ。
そんな、説明の不可能な喜び、幸せ、その他諸々の感覚を呼び覚ます力。そこにあるだけで尊びたくなるような力。それが縦糸なのだろう。
身の回りで慣れ親しんできたものたちに、縦糸と横糸のどちらのほうが多いのか。そういう目を向けて眺めてみると、案外、縦糸を見つけるのが難しかったりもする。
でも、縦糸を持つ作品は、それが分かれば、必ず心を豊かにしてくれる。そんな素敵な芸術作品との出会いを、求めてワクワクしていたいものだ。
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