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2022.3.6 〜Coda〜

ものすごい映画を観てしまった。

聾唖者の両親から生まれた健聴者のこどもを「コーダ」というそうだ。私はこの映画で初めてその単語を知った。この映画の主人公は、聾唖者である父母兄と過ごす高校生の健聴者の女の子。彼女は自らの置かれた環境と向き合いながら、「歌手になる」という夢を追いかけていく。

幼い頃からレストランのウエイターさんに、両親のためのビールを注文するなど、通訳を担うことで大人の事情に意図せず飲み込まれていってしまう「コーダ」という特殊な特性が、主人公及び様々な目線から捉えられていく。その複雑な心情描写を細やかに演じるキャストに、ただひたすら圧倒されてしまった。主人公の家族を演じるのは聾唖者の俳優たちだ。ひとつひとつの所作のリアルさと、彼らが日々抱いている感情がスクリーンからひしひしと伝わってきた。

そこには「家族ならわかり合える」という美しい物語はなかった。開放的で非常に仲がよく、お互いをなくしては生きられない強い依存関係を結びながらも、絶対にわかり合えない一線が家族の中に明確に引かれていた。

音楽を愛する主人公には、すばらしい歌の才能があった。しかしながら家族はそれを実感することができない。「音大に行くべきだ」と音楽教師から太鼓判を押されるほど眩しい娘の「光」が一体なんなのか、わからない。

それ故に母親は、健聴者であった自身の母親と健全な関係を結べなかったことを投影し、娘の意志や行動を「聾唖者である親への反抗的態度」と歪んで捉えてしまう。

父親は、愛娘の才能をどうにかして感じ取りたいと、手を伸ばし、周囲を見渡す。コンサート会場内では皆が涙し、皆が立ち上がって手を叩き続けている。その中で父親は、娘がたった今どんな意味の歌を歌っているのかすらわからずに、座り続けている。

そうした家族間の「わからない」に加えて、社会との「わからなさ」も作品内では丁寧に描写されている。家族に通訳がいることで、「成り立ってしまう」毎日。結果的に社会的福祉と遠ざかり、生きていく上での課題が家族の中に内包されてしまったのだろう。そのくらい、主人公の「通訳」は、あまりにも生活を「成り立たせて」しまうからだ。病院に行き病状を説明すること、仕事である漁に必須な漁船間の無線に対応すること、テレビの取材に応えること……そうした中で、妹に「背負わせている」ことを負い目に感じながらも、妹に依存して生きる自分に苛立ちを隠せない兄の心情は、決して推し量りきれない。しかしながらその怒り叫ぶ姿の裏には、妹への大きな愛情も輝いている。

また主人公自身は「コーダ」という、健聴者にも聾唖者にも理解されない立場ゆえの孤独を抱え続ける。「喋り方がおかしい」と周囲の友達に冷たい目で見られ、「生まれてくる子供が健聴者だったらと思うと怖かった」と母親に告白される。どんなときでも家族の事情が最優先となる生き方故に、受験指導を行う音楽教師から「怠けているやつは合格できやしない」と叱責される。

その関係の間に、たしかに線は引かれている。それでも少しずつでも、どうにかしてでも、お互いに「わかり合いたい」と努力を続けていく。そうした姿勢が、家族を、家族と社会を、コーダとそうでない人々をつないでいく。これは聾唖者と健聴者という関係だけでなく、数多ある二分された事項に対しも同じことが言えるだろう。

物心ついた頃から手話のやりとりを目の前にしていた主人公にとって、第一言語は「手話」である。それ故、主人公は口語ではなく手話に対し、自身の感情を乗せていく。また聾唖者の父親にとっても音楽は「振動」として確かに存在する。そうしたお互いの拠り所を持ち合わせて、主人公の「歌」がはじめて家族に届くラストの2つのシーンは、「わかり合いたい」という願いの美しさが、スクリーンから溢れるくらいに満ちていた。


<その他所感>

・エミリア・ジョーンズの歌がすごい。声という意味に限った歌要素はストーリー中盤のとあるシーンの1フレーズがクライマックスだと思っていて、そこだけで何もかも持ってかれる。サントラあるよ。

・お父さんの下ネタ手話表現がめちゃくちゃユニークで、とても感性豊かな人なんだろうなと思わせつつも、そのことが周囲に伝わらないことが悲しかった。お母さんもミスコンで優勝した経歴の持ち主だし、元来、芸術に対し非常に造詣の深い両親なんだと思う。

・音楽関連のシーンがコミカルなのがよかった。主人公の高校の同級生みんな歌めっちゃうまい……と思ってたらバークレー大から来た人たちだったし、休み時間に瞑想始めちゃうほど神経質な先生もとっても愛らしい。

・そうそう、サムネイルはパンフレットです。質感も教本のような手触り。センスがよすぎる。



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