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1月17日 26年という月日が過ぎてしまったことに驚いている

1995年兵庫県南部地震によってもたらされた阪神淡路大震災。
約6400人の方がなくなられた。
こうして数字で書いてしまうと味気ないように感じてしまうのがいやだったりする。
亡くなられた方、一人一人の人生があり、それに関わる人との人生があったはず。
それを思うと、なんともやるせない気持ちが今でもわいて出てくる。

当時、神戸・明石から30kmというところに一人で住んでいた。
まだ寝ていたが、すごい揺れに飛び起きて、ベッドの横にあった本棚が倒れてこないように押さえているのが精一杯だった。
揺れはいつまでも続き、このまま建物が持ちこたえられなくなり、崩れて死んでしまうのではないかという恐怖感がどんどんと強くなっていった。

震度は6。
建物の外はガス臭い。
どこかからガスが漏れている状態。
最初はどうもなかったが、すぐさま停電。
テレビも見ることができない。
ラジオはあったけれど、電池がなかった。
情報を得ることができない。
ひとまず、周りの人たちの無事を確認し合い、自分の部屋に戻ってみたらあらゆるものがすごくずれている。
まあ、よく助かったものだ。

当時、電話は携帯などない。
また、NTTの電話を引いていたけれど、電話機を買うお金がなかったので、月60円で黒電話をレンタルしていた。
黒電話は電気が来ていなくても、電話をかけることができるし電話がかかっても来る。
すぐに安否を確認しようと実家に電話をかけるが、混線してすでにつながらない。
祖母の家にも電話をしてみたけれど、こちらもつながらない。
後からわかったことだけど、兵庫県が震源とわかった途端に兵庫県方面との電話のやりとりが急増して交換局がパンクしたとのことだった。

午前10時過ぎに電気がついて、テレビを見てみると神戸がえらいことになっている。
淡路島もすごいことになっていた。
阪神高速は倒れているのがNHKのヘリコプターから写されている。
かなり不安になり、実家や祖母の家に電話をかけるのを再び試みると、祖母の家には電話がつながった。
祖母宅はかなり古い家だったが、大丈夫だったようだ。
実家には電話をかけてもつながらないので、大丈夫か気になっていること、こちらは大丈夫だということ手短に話をして、電話を切った。
これで、すごく気が抜けて眠気がやってきた。

しかし、そんな眠気などすぐに吹っ飛ぶ。
というのも、ひっきりなしに余震がやってくる。
テレビのニュースでは、今後24時間以内に大きな余震がやってきてもおかしくないと注意を呼びかけていた。

なんだか、呆然としていた1月17日。
周りの知人は、ご飯を炊けるだけ炊いて、神戸へ持って行く準備をしていた。
車でどこまで近づけるかわからないが、知り合いから食料を持ってきてほしいという連絡が入ったとのことだった。

もう、何が何かわからない一日だった。

しかし、自分の中で大きく変わったきっかけだったのは間違いない。

この地震で地学を専門に学ぶことを決心したのだから。
そして、人が死なないようにするにはどうすればいいのか?ということを真剣に考え始めた。
自分にできることは何だろう?
それが、今の仕事につながるスタートだった。

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