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真の自分に触れる。ー日常の次元を超えた世界を意図的に味わうー

「私はいない」とはどういうことなのか

非二元、ノンデュアリティ、アドヴァイタヴェーダンタのお決まりフレーズ「私はいない」。

この言葉は、幾度となく目にし、耳にタコが出来るぐらい聞いたことがある、という人もいるかもしれません。

非二元、ノンデュアリティ信者には、このフレーズはもはや宗教で、一種のマントラとして機能しているかもしれません。

しかし、このことをより正確に表現できている人はなかなか少ないかと思います。そして、そのような少数の人を人は覚者と呼んできました。

覚者とは、そのたぐいまれなる意識の状態もさることながら、あまり言及されていませんがその意識の状態や、理解、捉え方を端的に表現し、伝える能力が優れていることも大きな資質であるように感じます。

しかし当の本人は自身が、『覚者』という特別視される存在であることを嫌います。

言葉では意識や覚醒といった生命現象を表現しつくすのは不可能だからです。

聖書「はじめに言葉ありき」

何故なら『覚者』という言葉があればそこには当然、言葉の性質上、反対語が同時に生まれます。つまり目覚めた意味である『覚者』の反対の意味である『寝ている者』が同時にそこ誕生します。覚者と眠っている者という、そこには分離が生まれるからです。

覚者の伝えたいことは分離からの解放なので、それは意図していないことなのです。

「信号が赤なら止まる」など、言葉のやり取りや、言語で決められたルールで仕事や法律、交友関係、ありとあらゆる契約が生まれ、世界が作られ、その中で人生が展開する・・・という事実の中で、人間が生きている世界は「言葉」で構成されています。

正に聖書にある通り、世界は「はじめに言葉ありき」なのです。

多くの科学者や、SF映画や漫画でも言われるように、「人間は情報的な生命体である」ということは時を経るにつれて広く知れ渡り、実感され、応用もされてきました。

医師や物理学者の中には、生物は細胞や原子、素粒子などの物質で出来ていると主張もいますが、細胞、原子、素粒子のそれらも「情報」という大きなカテゴリーの中の一つの側面でしかありません。

光のスペクトラムのように、情報とは、物質的に観える状態から、だんだん見えない状態にまで至る連続性のあるもので、そのスペクトラムのある一部分を物質、細胞、素粒子と呼んでいるというわけです。

言葉が創る『時間』と『「私」という個人』と、様々な『ルールや法則』

そして、人間の世界は情報のスペクトラムの中で、「言葉」という世界の中で殆ど全てを過ごしています。

言葉とは、直線的な因果関係の法則で創られたものであり、そこには過去、現在、未来、という時制があり「私」という主語客体という目的語があり、何らかの文法が存在します。

つまり言葉は『時間』と『私という個』の存在と『法則』という三位一体と構築します。

『・時間・個人・法則』とは、「何時から何時まで」「私とあなた」「ここまではOKで、それ以上はNG」というように、全て有限なものです。

人間という生き物はそのような有限な存在として生きています。

しかし、人間は情報スペクトラムのある一部分でしかありません。それも言葉という制約で表現される、無限の情報スペクトラムのある一部分の世界しか見ることしかできません。

人間は、人間である前に本質的には動物であり、生命体です。より抽象度の高い視点である何十億年も続く「生命」の流れという位置から、生誕後40万年の歴史の人間を眺めると、人間という現象は何億年も続く生命の流れの中の、わずかな一時の波の動きのようなものです。

そして最近の人間は、そのわずかな波の中での、ほんのごくわずかな数千年の人類史の中の、ほんのこの100年程度の近代科学の発展のスパンでしかありえません。

つまり、こうした有限な個人は無限なものを決して理解できません。始めと終わりがあるとか、時間があるとかいう発想は、個人という言語で制限された人間の信念システムから生み出された考えです。

その信念システムから物事を眺めている限り、人は生まれたり死んだりするものだと信じてしまいます。さらに、その個人は一個の独立した存在だと信じている限り、死を恐れます。

覚者と呼ばれる人がいるとすれば、彼らからすれば「そもそも誰も存在したことなどないのに、誰が生まれ変わるというのでしょう<書籍:あなたも私もいない:リックリンツ)>。」というわけです。

「あなたも私もいない」ー「私はいない」を端的に表現している名著ー

著書「あなたも私もいない(リック・リンツ著)p164」では、「私はいない」ということを端的に以下のように表現しています。とても端的にまとまっているので、紹介させてください。

『質問者:でも私のマインドは答えを必要としています。

リンツ:マインドは答えを求めるものです。よくみてください。それはあなたのマインドではありません。それは「マインド」というものなのです。サットサンでは毎回同様の質問を受けます。それはあなたの質問でも、あなたのマインドでもありません。

質問者:わかりました(笑)。でも進化というものがあり、私たちは発展し続け、命は進歩します。

リンツ:それは夢です。それが物語です。命が進化しているという、まるで本当のように見える物語です。その物語には師が登場して、彼らの多くは、何かになりなさいと教えます。

質問者:何千年もそう言われ続けています。

リンツ:その通りです。いわゆる何千年も、ですが(笑)。何かになるという物語は大変に感動的で、しかも普遍的なものです。何千年もの間、何十億もの信者が主要な宗教に従い、何千人もの弟子が、なすべきことを解く師に従ってきました。個人は存在しないなどという話を聞きたい個人は一人もいません!                                            しかし感動したり、分かったと思ったりしてぞくぞくするとき、それはあなたが自分だと思っているあなたから出てきたものではなく、真のあなたに触れたということなのです。その真のあなたとはここにあるこれであり、これから物語全体が現れるのです。』

リックリンツのこの部分は、短いながらも非二元をよく表現していて「私がいない」ということを端的に述べているように感じます。

もし自分自身の置かれている状況や、自分自身について良くも悪くも深刻に受け止めているのなら、このフレーズは大きな解放に導いてくれるかもしれません。

リック・リンツの視点は仏教でいう「空観」と言われる視点であり、非二元やノンデュアリティの視点です。

次元を変えてみてみる

円柱は、「A:正面から見る」と長方形の形に見えます。しかし「B:底面から見る」と、それは円として知覚されます。

二次元的な視点では、円柱は円でもあり、長方形でもあります。円柱を見たときに、A「長方形の見方が正しい」、B「円の見方が正しい」とAとBの支店間で喧嘩するのが最も次元の低い現象です。

しかし3次元の視点から見ると立体的な一つの円柱としてそれは知覚されます。その次元では円も長方形も、どちらも正しいのです。そこではAかBかの喧嘩は、夢か幻です。

それが4次元、5次元、6次元・・・と次元視点を上げていけば円柱は3次元では想像もできなかった様々な現象として知覚されるでしょう。

これは非二元の教えにも言えることです。

先のリック・リンツの表現している部分のみを見ると、生命現象はただ在るがままで、個人は存在せず、そこには愛しかない、物語は全て創作された幻想である、という超越視点が生まれます。

それは円柱の例に限らず見えているものすべてを素粒子として解釈するだけにすぎません。

聴衆者は、円柱の例で言えば一つの視点しか現象を眺めない状態を想起します。

円柱を長方形か、円かの二者択一的な視点として解釈するように誤解します。人間を究極的な生命という視点のみでしか解釈しません。

リックリンツも生活しているならば、税金をはらい、社会に自分の能力を提供して(ノンデュアリティのスピーカーや書籍の出版として等)お金を稼いで、食費、家賃、家族や子どもがいれば家にお金を入れたり・・・

と言語空間の人間の物語に存在もしています。究極の視点である生命という存在と同時に、その国の法律や制度、社会のなかの社会人という存在でもあります。

その社会人という視点が、円柱の視点の例と同じように「間違い」ではないのです。

その様な人間の言語区間は次元が低いと言って、山に籠っても自然界の恵みで自身の身体の生命維持を果たすために様々なことをしなければなりません。

栄養を取るために動物や魚を捕まえるのか。採食主義でもどれが食べられる植物か、そうでないのかの知識など必要です。

つまり物理次元での私を維持するためには、それ相応の知識や技術、社会インフラが必要です。

より効果的で、効率的で、善意のある社会インフラを選択したほうが、自分の地域や友達、そして家族と子どもがより健康的で幸せになります。つまり、選挙という社会システム制度を用い、より優れた社会インフラを選ぶ方がよいのです。

つまり、情報空間それぞれの分野にもある程度の関心と知識がなければ、なりません。

こうして「~しなければ」という言語束縛が生じます。

私たちは、情報的な存在であるために、様々なネットワークコミュニティー的な存在です。ある時は家族の中での母親として、ある時は職場での上司として、ある時は客として、ある時は友達として・・・というように様々な役割を世界に提供しています。

それを仏教では「仮観」と言いました。

「仮観」だけでは言語束縛の抽象度の低い存在のままなので、様々な矛盾から苦しみが生まれ、争いが生じます。母親であるのと同時に、職場での立場もある、生活もあるからお金も稼がねば・・・それらのどちらを優先すべきなのだろうか・・・等という葛藤は誰しもが経験するような物語です。

上手くう行けばいいですが、その物語の中で、場合によっては怪我もすれば病にもなります。

そういうわけで、言語の世界の矛盾の中だけだと上手くいきません。視点を上げて、そもそも私たちという存在は、意識であり生命そのものであるという「空観」も大切です。

「空観」と「仮観」を上手く維持することを「中観」と言います。そして、それらが上手く機能している状態を天台宗では「円融三諦」と言います。

円柱の例で考えると、ある時は円の部分にイラストを彫って「はんこ」としてもちいたり、ある時は円柱を何かの柱としてもちいたりと、自由自在に扱うとが出来ます。

私たちの存在自体も、そのようなダイナミックな存在であらゆる状況で様々な存在として在ることが出来るという意味で、無限の可能性があると言えます。

「私はいない」とい言語束縛から逃れて

「私」という存在は、言語束縛から生じた現象であり、それは全体の生命現象から言えば、ほんの小さな枠から宇宙を眺めているようなものです。

万華鏡のような小さな縁から世界や宇宙を眺めても、その全ては分かりません。

「私はいない」ということを思い出し、言語束縛意を外し、動物や植物、そして鉱物ともコミュニケーションを取ってみると色々それまでとは違う感覚や世界が広がるかと思います。

例えば植物とコミュニケーションを取ろうとして、その植物に意識を向ける。その際に触ったり、眺めたり、においを嗅いだり、味わったり・・・5感の感覚で味わった後に、言語変換するのではなく感覚を感覚として味わうだけでも、言語の世界とは違うコミュニケーションということになります。

その世界の窓はとっても広く、深いものなので、時々海や山といった自然の中に身を置くことで自分が生命という連続体の中の一部分であることを思い出し、より豊かな観点が味わえるかと思います。

そして、束縛をいったん外した視点から再び日常と言われる言語束縛の世界を眺めることを繰り返すと、あるときこれまでには見られていなかった、新しい世界が見えるはずです。

それがワクワクしたり、ぞくぞくするものであれば、それは真の自分に触れたことになりますよね。











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