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映画「来る」は癒しの映画としてもみれる。

僕は映画が好きで、よく見るのだけれど時々ホラー映画も見ます。

「来る」という映画を昨年DVDで見ました。

この映画はある意味、幻想から「気づき」という真実に向かう過程を描いているようにも思え、面白かったので記事にしてみました。

映画の評価や感想は、10人いれば10人違います。

だから僕が見た感想と意見がかみ合わないことも多々あるだろうし、僕の評価や感想が映画製作者や監督の意図するものではないこともあるかもしれません。

映画という現象について見た人の数だけ解釈が異なり、それぞれの考え、意見、感想、評価が異なります。

しかしみんなと話を合わせるために、自分の意見や評価、感想の価値を下げ、表現しないで抑圧することもあるでしょう。

そうするうちに、あまり好きではない映画を好きと言ったり、反対に大好きな映画の評価を下げたりすることって誰にでもあるのではないでしょうか!?

そうするうちに、自分がこの映画を本当にどう感じ、どう思っているのかが分からなくなってしまうこともあるかもしれません。

実は、この映画のテーマにも重なる部分があります。

この映画の登場人物達は、世間体や見栄、損得勘定などの自分の欲望を満たすために、夫婦や友達、社会に対して偽りの自分を演じている人々の話です。

偽りの中に生きていることがずっと長いので、自分が本当は何者かを忘れてしまっている人々の話のように見えました。

自分を偽るということは、本当の自分を受け入れることを避けること、

言い変えると、

本来の自分に向き合う「痛み」をごまかすために、痛みを感じることを先送りします。

その結果として自分や他人に嘘をつき続けていることが、無意識に長く続いている人々のお話です。

「そんな痛みは自分のものではない」と、

痛みを受け入れず、抑圧し、先送りし、嘘をつくと、その痛みのエネルギーは最も弱い者に流れて表現されます。

映画では、最も小さな子どもにその痛みのエネルギーが流れて、ウィルスのように感染してゆく様を描いていました。

それがこの映画では「あれ」という得体のしれない化け物として描かれています。

そういえば、スティーブンキング原作の「IT(それ)」も、不安や恐怖を食う、代々から存在する化け物でしたね。

「あれ」は、このような人間の怨念の集合体のようなものかもしれませんが、大きくなりすぎてもはや自然災害のような現象として描かれていました。

この映画の中で僕がとても印象に残っているセリフがあります。

そのシーンは、ある霊能者が、自分が死んだことに気がつかづにさ迷っている男性の霊を成仏させるシーンです。

幽霊の男性は自分が死んだことに気がつかず、生前からの日常習慣を続けていました。

霊能者は、その幽霊の男性と話をします。幽霊の男性は自分が死んでいるということも、まったく疑わずに、楽しそうに霊能者に自分の好きな家族の話を続けています。

っと、突然その霊能者がナイフを持ち出し、その幽霊の男性の手の甲にナイフを深々と刺します。

幽霊の男性は「痛っ!!」と叫びますが、よく見てみると全く血が出ていません。

それはそう、幽霊ですからね。

そこで霊能者は言います。

生きることは痛いということです。傷がつき、血も流れます。お分かりですか、あなたはもう・・・」

その言葉に、幽霊の男性は自分が死んでいることに気がつき、成仏し、弔いが終わります。

(中略)

映画の人々は、自分が創った架空の幻の自分を演じ続けることで、痛みをごまかし、逃げ続けます。

そうした、それぞれの人々の幻が重なり合い、何が本当か、何が真実なのか分からなくなり、状況は混沌とし続け、

正に闇夜の直前のようなカオス的な状況になります。

そして、この状況の中で、霊能者の印象的なセリフがあります。

「これからは闇になります。
なにが正しいか、自分が生きているかどうかも分からない。そんな中で信じられるのは痛みだけです。

体に感じる痛みだけがあなたをこちら側につなぎ留めます。
だから恐れないで、痛みを、痛みを受け入れてください。」

この映画のキーとなるセリフのように思いました。

そして、映画は登場人物たちの思惑を超えるクライマックスを迎えます・・・

「痛み」と「気づき」

以前の記事で、

『病、障害、問題という現象は、自己を振り返るきっかけになり得る。

自己を振り返ることで、自身の考えや行動パターンを把握し、新しいより適切な考えと行動に切り替えることが出来る、いわば「瞑想」のような役割がある』

という記事を書きました。

病、障害、問題の背景には、「痛み」があります。

「痛み」は生きているというサインでもあり、

生きるという「生」というエネルギーにダイレクトに振れることでもあります。

私たち人間を含む生物は、生命というエネルギーから発生した個々の存在です。

防衛本能的に痛みを避けることが人間は高度に進化しています。

痛みを避けるために、文明を発展させ、月にまで生き、寿命を延ばし、地球環境を都合のよいように変化させ、生命の遺伝子さえも書き換える力を持ちました。

現代は、一人一人が20年前であったならば20億円もした価値のあるスマホをもち、バーチャルの中に没頭しています。

確かに便利になり、生存率は上がり、寿命も延びました。

が、それが「幸せなのか?」と問われると、胸を張って現在の人類の状況が至福に満ちているという人は少ないかもしれません。

それは虚構の中の、作られた自分を演じ続けることで、何が自分は欲していたのか、何が生きがいなのか?ということが分からなくなっている証拠なのかもしれません。

また昨年からのコロナによる情報パンデミックで、現在何が本当か分からないピーク、正に映画のクライマックスな世の中のように見えるかもしれません。

そう、現代は「来る」という映画の中で証言されていた、闇夜の中の世界なのかもしれません。

そんな中でのニヒリズム、困難、苦しみ、不安、恐怖に潜む「痛み」に向き合うことは、

最も忌み嫌われていることかもしれませんが、案外その痛みが「解放」のきっかけになることが多くあります。

ネガティブな感情の背景にある「痛み」は、思考という幻が巨大化させた幻影の中に存在し、見えなくなっています。

「痛み」に気づいてみると、「ただの感覚」に還元されます。

ただの感覚に還元されるとしめたものです。

その感覚にただ「気づいて」ください。

痛みという感覚に付随していた

「後悔や恐怖、不安」といった幻影となる思考は感覚という「気づき」光に変換される体験が、割と簡単にできます。

そうしたら、その感覚を維持し、受け入れ、気づき続けてください。

その痛みは、癒しへと変換していきます。

良ければ以前の私が書いた「QE瞬間ヒーリング・一瞬で幸せになる方法」という記事を参照してみてください。

その中の3点法という方法も、思考から感覚そして癒しに移行するテクニックが書いてあります。

そうして先祖代々から受け継がれた、不浄の霊が浄化されます。

コロナパンデミックによって、不安や恐怖の未来にばかり意識が向く人もいるかもしれませんが、

この映画「来る」のエンディングのように、

コロナパンデミックは案外、予想外な安心する結末だったりするかもしれません。





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