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「許し」と「赦し」ーその2ー

赦し

赦しとは、先ほど「その1」で書いた様に、「許し」には人間のレベルでの機能を指し、他方で「赦し」とは、神が関与する機能のことを指します。

神の関与とは、宗教的な立ち位置や状況において意味の異なる言葉になります。

一般的な認識では、神はあの世や別の次元など、どこかに実際に実在する存在であるという意味合いがほとんどだと思います。

この認識においては、「私と神」という関係性では、「私とあなた」というように、「自分と他人」という二者関係のようなレベルで、神という別の存在がいることを前提に話をしています。その古典的な神のイメージは、白ひげを蓄えて、杖をもって・・・というような感じの神様です。そういう水準の神も「いる」といえば「います」。

二元論での神

しかし、ここでは非二元的な意味合いの神について考えてみたいと思います。

「その1」で取り上げた「死神と死の淵に貧する女性」の物語において、女性がイメージしている神様とはおそらく二元論的な神をイメージしていると考えられるでしょう。何故なら死んだ後に、自分が神のいる天国に「移動」するような意味合いで話をしているからです。

「ここからあそこ」、というような移動は、別次元や死後の世界だとしても、時空間を前提とした話です。

そして死後の世界は神様のいるところは天国で、そうでないところは地獄というわけです。
宗教上においては、神のいない地獄では永遠の業火で焼き尽くされるという意味合いのストーリーが用意されています。
なかなか恐ろしい世界です。

では非二元的な意味合いでの神とはなんでしょうか!?

非二元での神

「死神と女性」の話の中では、女性は自分の生い立ちを死神に話していました。
 例えば、女性の年齢が60代だとすると、幼少期、思春期、成人した時の話など、60年前、50年前、40年前、30年前、というように過去の話をしています。
 そして、自分が死んだ後は、神様のいる天国に行けるだろうと、未来の話をしています。

これらの話は過去から未来に巡る、女性の人生の物語です。では、過去60年前の記憶の話をしたとして、その話の記憶をさかのぼる時間の範囲を一番古い記憶から数えて60年前、15年前、1年前、1か月前、1週間前、1日前、1時間前、10分、1分、10秒、3秒、1秒、0,5秒、0,1秒前・・・

・・・というように徐々に過去に遡る記憶を、どんどん短く区切って思い出していくとします。

すると当然ですが、時間をどんどん短く区切ると、その想起される物語も短くなっていきます。そしてどんどん短くなっていき、最後にそれは「一瞬」の「今ここ」に還元されます。

同様に、未来に対してはどうでしょうか!?同じように10年後、5年後、3年後、1年後、1ヶ月後、1日後、1時間後、10分後、1分後、10秒後、1秒後、0.1秒後・・・というように遠い未来から現在に短く区切っていくと、過去と同様に、「今ここ」の一瞬に集約されます。

ここで分かったことは、過去も未来も、「今ここ」という瞬間の総和であるということです。

「今ここ」を体感するワーク

ここで簡単なワークを紹介したいと思います。

口の中にある舌先の感覚に意識を向けてみてください。
目を閉じて、舌先が歯にあたっている感覚に「気づいて」ください。
舌先はどんな感覚でしょうか?
どんな温度ですか?
歯はツルツルした感覚でしょうか?
ザラザラした感覚でしょうか?
その感覚に気づきをただ向けてください。
気づきを集中させようとか、努力しようとか、雑念が湧いたらそれを押さえ込もうとしたり、追い出そうとしようしなくても結構です。
雑念が湧いてもただ、その感覚への「気づき」を維持してください。
このワークを目を閉じて、3~5分程度行って見てください。


どんな感覚になりましたでしょうか?

おそらくは多くの人が安らぎの感覚やリラックスした感覚を経験したことかと思います。
この安らぎを経験するために、何か読経したり、集中したり、何か人の役にたつことをしましたでしょうか!?

いいえ、その必要はありませんでした。

この感覚を経験するために、何か特殊な教えや宗教、学歴、などの地位や人種、性別、年齢などの条件が必要でしたでしょうか!?

いいえ、必要ありませんでした。

この安らぎの感覚は古くは「サティ(気づき)」と呼ばれ、ヴェーダ哲学や仏教の止観瞑想(今風に言えばマインドフルネス)、神道の「中今」、古来のキリスト教での教えでも中核をなす教義であり、それは「ただ在る」という純粋な意識の経験です。

この瞑想が熟練になっていくと、その純粋な意識の中に、過去や未来を含む様々な思考が現れては消えていくのが、体感として分かって行きます。

そして、その純粋な意識とは、言葉で表現すると、「安らぎ」「至福」「愛」「喜び」「静寂」という感覚として表現されてきました。

そして、それらの表現が様々な宗教や神秘主義、哲学の中で神と共に語られてきています。

自分の人生は記憶で構成され、それらは認識という方程式で描かれている

過去や未来のストーリーを細かく区切る(微分する)と、「今ここ」という単位になります。

そして、「今ここ」という感覚を自分の思考パターンの方程式(認識パターン)に入力して足し合わせる(積分する)と、

10年前、30年前の過去の物語、10年後、30年前の未来という物語が展開します。

例えると、人工知能(AI)が搭載された頭脳に、10年前の記憶という数値を入力すると、10年前の様々な記憶が展開されます。

AIは、様々な方程式(関数)でプログラミングされています。その方程式に入力するデータに応じたデータが出力されるのと同じです。

その物語の内容が、幸か不幸か、喜劇か悲劇かという解釈はその方程式(認識パターン)がどのような傾き(幸せなのか、不幸なのかなど、どのように傾いているのか)によって決定します。

それは主に情動に関する評価の基準です。

この方程式が描く「軌跡」が、想起され展開される人生の記憶です。

ちょうど、VRゴーグルに展開する映画のストーリーは、機械のパターンによる方程式が描く、縦横高さに時間を加えた4次元の物語が繰り広げられますが、それに似ています。

そしてそれらの物語の光景は全て、光のドット(点)の集合であり、素粒子の集まりです。

それらの点は数学的に言えば、定義上面積も体積も存在しない、無限に小さい点です。

それは「あるとも言えるし無いとも言える」つまり「色即是空」です。

そして、その「点」そのものは、体感としては先ほどのワークで経験した「今ここ」の感覚として知覚されます。

その体感としては、先ほど経験したように平安、安らぎ、という感覚として経験されます。

過去であれ未来であれ、その物語の構成内容は「今ここ」という安らぎ、平安という知覚の総和です。

私たちの本質は、役にはまりこみすぎた存在

私たちは、「認識する」という方程式を持っているから人生を幸か不幸かに「解釈」しますが、

実は常に既に、これまで求めてやまなかった安らぎと平安の総和の中にいるということに気づけまません。

どうしても人類史として受け継がれている何万年も続く、防衛本能の思考の癖で、常に不安や恐怖から逃れるための物語を無意識に描きます。

そして、自分の人生の物語が、認識の方程式が描くフィクションではなく、「実在するもの」として体感してしまいます。

「私」とは、その物語の中に登場するあるいっときの役を担っていた存在であり、「実在する」ものではなく、常に至福である「気づき」そのものであった、と目覚めることが「赦し」ということになります。

親であれ、子であれ、会社の上司で在れ、部下で在れ、悪役や正義役、被害者、加害者、愚か者、賢者、勇者、愚者・・・この地球という舞台では状況に応じて様々や役が演じられていますが、私たちは何万年も何十万年以上も、その物語に没頭しすぎ、演じている役がフィクションではなく実際に実在すると思い込んで迷っている役者のようなものです。

あまりにもその役が臨場感が強すぎるので、死んだ後も繰り返し、はまりこんでいるわけです。そしてそれを前世や来世という輪廻として捉えます。

前世も来世も役にしか過ぎません。

そして、「私とあなた」という二者関係も、そのように二人の存在がいると錯覚しているだけで、本当は「私とあなた」「主体と客体」という分離は存在しません。

つまり「赦し」とは、広大な紙面に描かれた人生という物語が、喜劇であれ悲劇であれ、なんであってもそれらは全て実在しないフィクションであることに気がつくことです。

実際は神/紙(気づき)に描かれた物語に過ぎず、悲劇でも喜劇でも、どんな種類の物語であっても、そこには優劣もないものだと気がつくことです。

丁度、映画や小説の物語に本質的な優劣はないのと同じです。

目覚めるということ

別の例えで言えば、夜寝ていて、友人に騙され殺された夢を見たとします。夢から覚めると「ああ夢か」と安堵します。夢で友人に騙されて殺されたからと言って、その友人を訴えたり、復讐にから殺したりしようとするでしょうか?もしそうなら、それはまだ目覚めていないことを意味します。

「女性と死神」の話に戻ると、死神が女性に語った「人生で許せない人々への遺恨の感情があると神様の元へいけない」というのは、その女性が単に目が覚めていないだけだ、というように解釈ができます。

しかし目覚めた立ち位置だと、死神も女性もいません。あるのは、ただそのように起こっている現象のみです。

視点を変えると、女性にとっての死神とは、何らかの自分のエネルギーの投影であり、

そして死神にとっては、自分の仕事の役割の相手として、死神の物語の世界に展開するストーリーの一部分であるかもしれません。

また、死神と女性を眺めてみている「家の部屋」としての解釈も存在するでしょうし、死神と女性の会話を眺めているネズミの視点もあるかもしれません。

その物語の解釈は、視点と立ち位置を変えると無限に存在します。

実際に日常生活でこの話がどのように作用するのか!?

もし「その女性の為に何かできるか」という役割で、この話を眺めてみると、

「死神と女性の物語」において、その女性に、「あなたが過去において許せなかった人々がいるのは、ただ単にあなたが目が覚めていないだけです」といって聞かせても言われた女性はただ困惑し、余計にネガティブな感情を蓄積してしまうでしょう。

つまりますます女性の困惑を促し、目覚めから遠のいてしまう可能性が生じてしまいます。


それは非二元や空論の誤用になります。

大前提として、

私たちはかりそめの役割の中でそれぞれの人生を生きていて、その人生に優劣はなく、本当は常に既に、古来から神と呼ばれる「安らぎと至福」の中にいて、一度もそこから離れたことはない、

という認識は非常に重要ですが、このような概念に慣れていなかったり、強いネガティブな体験をした直後では逆効果になってしまうことは、言うまでもないことです。

そしてほとんど多くの人にとっては、そのような話は「は?」「だから何?」の世界です。

しかし、世の中の大多数が、このような目覚めの認識がほとんど皆無であったとしても、生命現象や人間の進化の過程において、できるだけ多くの人間が知識だけでもそのような情報を知っておくということは、とても有益です。

でなければ、人類は防衛本能から不安と恐怖を追いやり逃げ惑う物語とシステムを、地球が崩壊するまで続けるからです。

それは個人にとっても集団にとっても、魂の本音では避けたい事実です。

そんな中で

ネガティブな感情が表出すること自体は、正常な生理反応なので、それ自体が間違っている、未熟だ、と評価してしまうこともナンセンスです。

私たちは、常に神(この言葉に抵抗があれば別の用語でもなんでも構わないです)の中にいつつ、自由に人生を描くことができる存在であるということを認識することが重要です。

そして、その事実を思い出し、気づくことが「赦し」です。

「許し」の認識方程式は、被害者と加害者、未熟者と成熟した者を分け、永遠に続く分離の物語を助長させます。

「赦し」の認識方程式は、目覚めを促し、分離ではなく、融合や統合の世界の構築に繋がります。

この認識方程式は、過去からの条件反射的、防衛本能的な「平安を手に入れるために戦うか、逃げるか、もしくは思考停止して麻痺するか」というパターンの思考形態から、
「平安は常にあるから、そこから自由に創造する」という認識パターンの方程式に移行することができます。

その選択を続けることで、自分と自分の周囲の世界が書き変わっていきます。

それが、神様のいる天国の世界ということになります。この場合の神様は「気づき」という「今ここ」のことです。

天国も地獄も、認識パターンの方程式によって選びなおせるということで、それらはどちらも常に、今ここにあるというわけです。

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