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「いじめ」という現象を生命現象という視点から考えてみる ―その3ー

あらすじは読み飛ばしていただいても大丈夫です。内容がややこしいので、少し復習文を設けました。

前回までのあらすじ

「いじめ」という現象を生命現象という視点から考えてみるーその1ー

このシリーズ記事の「その1」では、「いじめ」という現象は生命現象の現れならば、生命とは何か?という問いかけから始めてみようということで出発しました。

生命とは何か?ということを考えると、宇宙とは何か?ということに繋がります。宇宙観は、現代では映画マトリックスのように、ホログラフィー宇宙論が注目を集めています。

ホログラフィー宇宙論では、万物宇宙は物質ではなく情報で構成されているという見解です。認知科学者、苫米地英人は自身の超情報場仮説において、この物理宇宙を含めたすべての万物は情報で出来ていると唱えます。

そして、宇宙万物は情報的な存在ではあるものの、そこには階層構造があり、その階層構造の最も抽象度が低い部分を物理次元と呼んでいます。

となれば万物の最小構成要素は物理的な素粒子ではなく、情報を構成している最小構成単位である「生命素粒子」ということであると博士は語ります。

生命素粒子とは聞きなれない言葉ですが、「元気」の「気」、気功の「気」、インド哲学の「プラーナ」にあたるものです。これらは時空を超えて作用します。

時空を超えるということは、物質次元を超えているということで、ビッグバン(生命)から生命が誕生したのではなく、生命素粒子という因果からビッグバンが誕生したという結論がもたらされます。

万物宇宙は、時間も空間もそもそも存在せず、ただ在るがままです。その赤で生命現象の一つである人間の認識視点によって、時間はA「過去から未来」、B「未来から過去」と自由に変えてみるとが出来ますが、その認識視点によって得られる現象(世界)が変わってきます。

「いじめ」という現象を生命現象という視点から考えてみる―その2ー

時間に関する認識視点Aであれば、物質はエントロピーの法則により、矛盾やカオスを繰り返し、崩壊します。これをタナトスと名付けます。

反対に、認識視点Bであれば、時間は未来から過去に進み、エントロピーは減少方向に進みます。別の言い方をすれば、愛や調和の状態が優位になります。これをエロスと名付けます。

人間はタナトス的な観点が無意識のうちに何万年も刷り込まれているので、動じても物質唯的な観点が、強固な癖になり外れにくくなっています。そのため、世界を不安や恐怖が優位な認識の枠でとらえてしまい、そのような現実を創り、人生を歩みます。

タナトス的な視点は、過去から未来に時間が流れるということです。つまり、過去が原因となって未来を創ります。そうなると、過去の先祖の栄華、栄光がある家系が優れた遺伝子をもち、過去の学歴、経歴、そして、能力、才能が未来を規定するというあまり明るくない現状が導かれます。

それを基にヒエラルキー的な社会構造が構築され、それを社会は無意識に維持しようとするのが正義とします。

ヒエラルキーは底辺が人口が多く、常に上部は底部を押さえつける緊張に晒されます。そうしてそのストレスから摩擦が起きます。それがいじめ、差別、そして戦争という現象として表現されます。

そして以下から、今回最後の―その3ーの記事です。

これまでの戦争や差別、いじめが良くないとされてきた論理

タナトスの力にあらがってきた物語を、人間は本能的・慣習的に美しいものとして讃えてきましたが、その考えや価値観を担保するものが弱い論理ばかりでした。

例えば愛や倫理的、道徳的なものから生命の価値を説いてきましたが、分かる人には分かりますが、子どもや関心の薄い人、能力によっては、ほとんど多くの人が理解は難しいでしょう。ただ情動に訴えて、良いものは良い、悪いものは悪い、という結論に何となく行きついてしまっていたように感じます。

今の時代に「人間はなぜ生きるのか」「生きるのならばなぜ、人に親切に、愛をもって生きるべきなのか」「なぜ命を粗末にせず、大切にするべきなのか」ということを明快に答えられる大人が人口のどれだけの割合に存在するでしょうか!?

たいていは、宗教、信仰、哲学、道徳、場合によっては科学の沢山の言葉を並べ立てて、最後は慣習的に意味や生きがい、愛が大切だといういうことを共有して終わるということになっていたように思います。

それはもともとの思考の出発点が「物質>生命」という認識視点Aの中で思考していたので、結末がカオスや無に帰結するという矛盾を説明することが困難なのです。

そうして、最後は神や宇宙の法則、倫理、一部の人にしか分からない哲学にその答えが収束していました。場合によっては、死後の世界や生まれ変わりの生にバランスを取るという物語や、絶対神の計らいという雑な説明をごり押ししてきました。

そして、それらを教育するという社会文明システムが成り立っていたわけです。

しかし、その矛盾に気がついた罪悪感や共感能力が低い者は、戦争や犯罪などやりたい放題にのさばってきました。圧迫され、虐げられた者たちは、それらが救世主に観え、より盛り立てます。

例;映画ジョーカーより

これに対し、そのような者をとりあえず正義という名の基に力で抑えるという構造が出来ます。この繰り返しが続けられていました。

しかし物事は単純で、

「生命>物質」という認識視点Bの観点が、少しづつ科学的な知見からも大衆に共有されることで、状況は変化すると考えます。

それは単なる事実として、生命現象とは愛や調和に向かうエロス的な衝動が宿っているということです。

つまりタナトス的な視点のみだと、いずれ全ての生命がカオスに向かい無に帰すという生命に意味や価値を見出せません。そこには虚無や不安、恐怖しか見出せません。しかし、生命はそもそもエロス的な力があり、時間の経過とともに、姿形を変えながらも、その真価を発揮しているということです。

生命観はより優れたものに書き換わって行くでしょう。

新しい認識視点をもって、進化する社会システム

その結果として、戦争、差別、いじめ、という現象が生命現象として以下に古臭く効率の悪いコンテンツであったかということが、心底理解されます。

それに比例して、文明社会の在り方も激変します。例えば、数千年前の文明では雨ごいをするために、生贄を定期的に神々にささげていた風習が文明によっては存在していました。

その風習は当たりまえの慣習でした。現在は、ほとんど多くの地球人はそれがナンセンスだと分かります。

それだけ情報が共有化され新しい価値観が自然に芽生えていったからです。自然にいつの間にか生贄という風習が無くなるのと同じように、いじめや戦争、差別という現象もなくなるでしょう。

生贄という風習は、「人間以外に支配的で恐ろしい神や自然現象が存在していた」という認知視点から容認されていた儀式でした。

戦争や差別、いじめといった現象は、『私たちは「私」という分離した自己が存在し、その自己を守るために資源を奪わなければならない』という認知からヒエラルキー的な身分の上下関係が生じ、これを維持するために定期的に戦争がしかけられています。

この認知視点が一人一人外れていき、実際に社会構造的にいじめや差別のない環境が構築されることによって、戦争や差別、いじめも無くなります。

新し認識視点は、『「私」という自己感覚は錯覚である』ということです。つまり、守るべき自己というものは、そもそも存在しなかったという自己感覚が社会全体に常識として共有されているということです。

(※誤解を与えずに言えば、これは、敵や危機が攻めてきた時に、「守るべき自分は存在しない」と言って、やられ放題になるということではありません。)

いじめのない環境:細菌類から考えて

時間の流れを認識視点A[過去から未来に流れる」から見ると、物質現象のビッグバンから45億年後に目に見える形での生命が誕生します。

そして、地球上の生物は、細菌(バクテリア)と真核生物という2大グループに分けられます。細菌には「真正細菌」と「古細菌」という2つのグループがあり、古細菌に近い仲間から「真核生物」が進化したと考えられます。
動物、植物、菌類(キノコ、カビ、酵母)などが真核生物です。

また、人間は90%が菌類で出来ているという研究者もいます。こうしてみると、私たちはみな菌類であることが分かります。

この視点から考えると、エントロピーを増大させる環境に置くと、タナトスが優位になる現象に陥ります。それは生命素粒子が不活性になり、より人間が物質的に流れるということです。

言い方を変えると、そのような病原菌が多く繁殖しているということです。

その結果として、病や障害が起こる確率が高まり、死に近づきます。そのような生理現象下では、常にイライラや不安、恐怖といった情動が優位になり、人間関係において、いじめや差別が生まれやすい脳内と体内環境が生じます。

悪循環的な生活習慣が生まれ、酸化ストレスにより脳内に炎症が起き、よりネガティブな情動が生じやすくなります。こうした個人が増加し、社会現象としては、国民の中で不満や不平が募り、そのエネルギーは戦争という現象に利用されます。

このように、個人の生理現象というものは、その家族はもちろん、社会や国家にとって非常に大切です。

いじめが蔓延する場所の条件

菌は多くの生命にとって重要不可欠で、その影響力も甚大です。キノコを栽培するときには、高温多湿で日光が少ない日影が適した環境です。

これは一つの例ですが、最小の生命単位である菌が、多くの人間に影響しているのであれば、タナトス的な現象を起こしやすい菌と、エロス的な現象を起こしやすい菌など大別できます。

ちょうど、善玉菌、悪玉菌というような感じです。

生命現象におけるタナトス的な流れは、無秩序、カオス、無、争いという流れに繋がり、個人では不安、恐怖などの情動から生まれる病として表現されます。病となれば、そこには何らかの「タナトス菌」のようなものが総じて存在してもおかしくありません。

「タナトス菌」なるものが物理的に存在するならば、キノコの菌が繁殖しやすい物理的環境や条件がそんざいするように、タナトス菌が増殖・繁殖する環境があってもおかしくないのでは、と私は考えました。

いじめが蔓延する条件

そのヒントが現在ベストセラーである、ルドガー・ブレグマン著「希望の歴史 下巻」にあります。

本書によれば、いじめが蔓延する場所を広範囲に調査してきた社会学者たちは、いじめが起きてしまう場所を「トータル・インスティテューション(全制的施設)」と呼びます。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは全制的施設の特徴を以下に上げました。

「トータル・インスティテューション(全制的施設)」
・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。                    ・全ての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。                ・活動のスケジュールは、多くの場合、1時間ごとに幻覚に決められてる。           ・権威者に課される、明確で形式ばったルールのシステムがある。                                           

反対にエントロピーが縮小するような環境をつくる、つまり、いじめや差別が発生しない状況を創ることもできるはずです。

この「トータル・インスティテューション(全制的施設)」の逆のシステムである学校は、一つの例としてアゴラという学校があります。

その特徴として、

・クラス分け、教室、宿題、成績のない学校                     ・誰もが互いに異なっている。あらゆる年齢、能力、レベルの子どもが交じり合っているので、人と違いうのは当たり前。                       ・コーチの力を借りて、個人的な目標を設定する。                      (希望の歴史下巻p113~より)

という環境は、「いじめがない」と本書では言いきっていました。

確かに「トータル・インスティテューション(全制的施設)」は日本の学校制度とほとんど同じです。

一人一人の知識の許容量を超えた現代

パンデミックにより、現在は世界は混乱化にあります。

生物は、ウィルスにより突然変異を繰り返し、進化を続けていました。今回の新種のウィルスにより、また人類は進化を遂げるでしょう。

その進化の方向性は、物理的な身体的な変化ではなく、情報的な認知能力の爆発的なバージョンアップかと思われます。

何故なら人間はとうに、部地理空間から情報空間にその居場所を移行しているからです。

パンデミックによって、医師が様々な見解を発信していますが、その見解は人によっては180度真逆な意見は少なくありません。

相手のそれぞれの見解を眺めると、極端に被害的で感情をあおる情報はともかくも、パンデミックに対してのそれぞれの意見はどちらも、それぞれの立場真摯に訴えているように見えました。

しかし、概観すると意思や科学者の意見の背景理論において、生命を物質現象としてのみ見るか、そうでないかで最終な見解が異なっているように感じます。

人間は、物理的、生物的、心理的、そしてスピリチュアル的な存在です。これまでの医学的な見地では、物理的・生物的な見地ばかりが目立ちました。

近年になって、やっと医学の領域も心理的な見地を考慮してきましたが、まだまだ医学の領域は物理生物的な視点がメインで、心理的な、ましてやスピリチュアル的な領域は心理的盲点となり、無いものとして扱われます。

スピリチュアル的な領域を提示すると、怒りを買ってしまう場合も少なくありません。

医師によってその理論背景が全く違いので、意見がかみ合うはずがありません。

つまり、一人の人間が生命現象を扱うには時間も、能力の狭量も足りないのです。そのため、「協力」するよりも、相手の意見を排斥して無理くり自身の説を通そうとしています。

本来は、自身の能力の限界を早々にみとめ、争いではなく協調して研究を進めるべきですがそうなっていません。それどころか常識的な見解や大多数の見解から外れる意見に対して、暗黙の内にネガティブなラベルを張り、発言権や機会を奪っています。

これはいじめや差別の構造と違わないでしょうか?

これまで見てきたように、「いじめ」という問題を扱うにも、物理的な環境要因や、菌類という生物学的な視点、もちろん従来からの心理的な視点と、スピリチュアルな視点というものがあります。

その様な視点全てに長けている人材は、大天才のような稀有な人物でしょう。一般の人々は、その稀有な存在の意見をありがたくも拝聴する、という古来からの釈迦やキリストからの構図が出来ると、そのその情報格差からヒエラルキーが生じ、結局「タナトス菌」が蔓延します。

「私はなぜ仏陀やキリストから離れた環境で生まれ育ったのか・・・」と嘆くのです。

それはもう時代遅れの発想です。本来のメッセージは、釈迦やキリストの叡智は一人一人に宿り、意識の持ち方によって、いつでも彼らと同じようになれる、というのが古来から、そして現代の最新の知見です。

とはいえ、そこには個人差があるわけです。

となると、次世代の進化は個人の爆発的な能力の上昇というよりは、一人一人がネットワーク的に繋がり、種としての新しい文明や社会構造を創るということです。

一人の人間が知識量や運動能力、共感力が長けていても、地球上の環境を変化させるほどの力は持ちえません。

一人一人が多くの人間と繋がり、タナトス菌ではなく、エロス菌を繁殖させながら、地球環境と循環しながら生きていくということになるでしょう。

そもそも一人一人の存在が異なる存在であるがゆえに、無限に広がる広大な宇宙を、その独自の視点からしか得られない解釈があるという、ユニークで貴重な存在だということが理解されています。

このような時期には地球環境の動植物との円滑な循環が起こっています。

いじめや差別・戦争とは、エネルギーの循環が起きていないことによる弊害から表現されています。

そうしたエネルギー(情報)の循環化が進んでいる進化の過程において、エロス菌が増殖した人間はいつの間にか戦争と差別、いじめというコンテンツが、古来に絶滅した生贄という風習のように、過去の遺物として眺める時代が来ていると思われます。

その様な時代では、地球という生命形態と協調しながら波動を上げ、太陽系外の知的生命体である銀河文明と交流している時期なのでは、と思われます。

今はその移行期なのは。


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