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夜行列車の女  続き

仲間同士、自分の慌てた姿を相手に見せまいとしながらも、やはり動揺の色を隠すことはできず、「急行」とはいえ、ローカル線独特の揺れと騒音を車内に響かせながら、ひた走りに走る夜汽車の中で、しばらくは立ち上がっては座り、後ろを振り返っては車内を見回し、車掌の姿を求めていたが、やがて自分達の行為の無意味さがわかったのか、視点の定まらぬ眼差しで、お互いに腑抜けしたように相手を見ることもなく
眺めていたが、誰からかともなくニガ笑いを始め、空しい笑い声を残しながら、手にした缶ビールを飲み始めた。
 
 間も無く通りの悪い車内放送で、九時十五分西条駅に到着することが知らされると、
その三人は、ソソクサと出口の方に足を進め
到着と同時にホームに降りて行った。

 ゆきがかりのこととは言え、野次馬根性をむき出しにし、ホームに降りた三人を、窓ガラスに額をつけ、左手は車内のライトを遮りながら覗いてみると「バタバタ慌てなや」と落ち着いたような態度を示していた脂顔の男は悠然と歩いていたが、残りの二人は、やはり性急な様子がうかがわれ、小走りにホームの闇の中に消えて行った。
 
 しばらくは、動き出した列車の窓に目をむけていたが、外の闇に裏打ちされたまどがらすは、写りの悪い鏡のはたらきをし、先ほどまで三人連れの男性が座っていた席に、ひとりの女性が座っているのが映し出された。

 私は振り返りもせず、窓ガラスあに現れた女性を観察する。
 明るい紺色のスーツに純白のシャツ。
その襟元は海老茶色のスカーフのようのネクタイを"キリッ"と締めている。
 その前の席には、ポツンと、これも紺色のブリム付きの帽子がただひとつ置かれている
 
 左右が逆になって映しだされるシルエットは、車窓の外を流れるシグナルや、色とりどりの屋外灯に影響され、蝋燭のきれかけた走馬灯のように、幻影となってはかき消され、またクッキリと現れるなど、変化に富んだ映像を示しながらも時間は過ぎて行く。

 「短大性くらいかな?」などと思いながらも、夜目にも色白く映しだされるその容姿の端正さを見ていると、自然につまらぬ好奇心が湧きあがり、それとなく落書帳にスケッチをはじめた。
 
 少しすると窓ガラスの女性は、スーッと足を動かせたかと思うと足を組み、横に置いてあるバックから、週刊誌を取り出した……
 「カチッ」小さな音を残して火をつけたたばこを細い指先ではさみ、紫色の煙をふかせながら、ちらっ、ちらっと私の方をいぶがしげに眺めては、週刊誌に眼を走らせている。
 
どう見ても、年齢的には、二十歳前後の娘のようだし、たばこの吸い方もギコチなく、決して美女、別嬪と呼ばれる類の顔立ちではないが、その子の持ち合わせている色彩感覚は
好感をもって眺める事が出来、じゅうぶんなまでの照明ではない夜汽車の中で、自分なりにスケッチを楽しむことができた。
 と言うのも、その娘の下りた駅がどこであったか、まったく気がつかないほど執心したからであろう。

 
ある旅好きな某大学教授の手記を読んだことがあるが、読むほどにまったく同じような旅の楽しみ方、考え方をされている方がおられるのだと感服した。

 私自身、別段旅好きではなく、どちらかといえば動かない方を好んではいるが、それとても、仕事場の関係で年に一、二回の出張がある。教授の旅行範囲は、新幹線でも四時間くらいが限度で、それ以上になると飛行機を選び、旅をして楽しみにしているのは、各地の焼酎がすきだから、と結ばれていた。同感である。
 
あえて異なる点を言うならば、教授ほど時間的なことは気にしない。明るい間は、車窓を飛び去る風景の移り変わりを鑑賞しながら、手当たり次第にその情景や想いのままをノートに記し、それに疲れると焼酎を口にしては茫然と黙想し、雑談に花を咲かせている人達の風貌とか人間臭さを想像し、うつろ眼を開けたときに、想像人物との相違を私は楽しんでいる。
 
乗り心地さえ我慢すれば、旅の面白さはローカル線にかぎる。特に四国を離れ、宇野経由で上京し、あるいは帰松する途中の道中で、印象的で、一番好きなのは、岡山県の茶屋町を中心とした、早島、彦崎間の沿線約六キロはあまりの風景である。
 
 自然のままの小川や、農水路がどこまでも続き、水路に面した農家は、いしづみされた屋地の上に建てられ、水の深みがあるような岸端は、昔ながらの杭を打ち、横板を使った堰や土留めをつくり、また巾一尺足らずの畦も昔ながらの土の畦が延々と続き、水田に水を張る季節をむかえると、水田と小川の水面は共に馴染み合い、浮草は小川から水田に、水田から小川へと流れている。
 
このような自然の小川や水路が残っているところを見ると、じょうれんを手にし跳ね上げたドロ水で顔やシャツを汚しながら、小鮒や泥鰌などの川魚を追いかけた 子供の頃が思い出される。

 これが近代化され、機能化された現代の農村風景であり、小川の水も十分に管理できないような地方はおくれている。と、反論されるかも知れない。 
 
穂先の出ていない水田の、稲の葉先を眺めてみると、同じ流れとみえる風足の中にあっても、強く押さえられ、あるときは爽やかな動きをみせていても、右に流され左に押され、定まらぬ動きをしている。
 
これと同様にそれを眺める人の喜怒哀楽いっさいの欲望、執念やねたみ等の気持ちしだいで、自然とみられる風景が、さびれたただの田舎とみられ、あるいは、旅の道中で遭遇する人達の印象も風景と同様に、美とめでられあるいは醜と下卑されるのかも知れない……などと考えていると、窓ガラスの女性の姿はなく、席の前あたりから"ぷーん"と夏柑の香りが漂ってきた。
 
高松で乗車し四時間あまり、そこに人の存在をまったく意識していなかっただけに、背筋を伸ばし、床面に敷いた新聞紙の上に立ち上がりながらのぞいてかみると、長旅に疲れ果てたと言わんばかりの中年の女性が、あられもなく姿体を斜めにくずし、夏柑を口にしながら、近づきつつある松山城の夜景を眺めていた。
    かがりび
昭和五十八年九月号より

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