松山大空襲と忘れられない辞典

 私達は、萱町周辺の逃げ遅れた十四、五人の人達と一緒にいたが、いづれも深さ五寸くらいにはられた水田の水の中に毛布を敷き、布団や防空頭巾を濡らし、焼夷弾の直撃をうけても、最小限度の怪我ですむよう頭からそれらを被り頑張っていた。
 
幸いにも避難所の上に直撃弾は落ちはしなかったものの、水田にまで飛び散った焼夷弾の油脂は、焔をあげながら水面を漂っており、それが田植後あまり成長もしてない稲の苗に絡み
 「田の中でも危ないぞッ。皆んな川に入れ」

誰であったのかは記憶にないが、男の声が避難を知らせた。
十四、五人の者は、その声に誘われるように水田の南側に流れていた巾四尺ほどのドブ川の中に入る。
 
 誰か川下を堰止めてくれたのであろう。少なかった川の水がしだいに水嵩を増し、川底に座ってちょうど腹から胸辺りまでくるようになった。
 袈裟掛けにかけていた鞄を肩からはずして岸に置き、弟と二人で一枚の毛布を頭から被り、父と母も一枚の毛布を被り、私達兄弟と父母の二組は互いにドブ川の中で向かい合っていた。
 
 水田の西側はちょうど製材工場の材木置場となっていたため、そこに焼夷弾が落ちたのでは焚木に火をつけたも同然である。
 大量の材木置場の火勢は、筆舌につくせないものとなり、布団の表は短時間で乾燥していまう。

 濡れ布団を被り、その布団の上に水をかけようとしてもかけられるものではない。
 瞬の間布団全体を川に漬けようとしても、いつ落ちてくるか予断を許さない焼夷弾のことを考えると、とても布団から体をだすことなど出来るものではない。
 
そのため、お互い向かい合ったままわずかの隙間から相手の布団の上に水をかけ合い、布団の焼けを防げると共に、焼夷弾の恐怖から身を守るのが、精一杯であった。
 
今になって思うのに水に濡れた布団が乾燥し、焼けるという経験はこの時が初めてであり、最後でもあった。

 「鞄が焼けよるがッ、早よ川に漬けろッ」
父の叫び声で、岸に置いてある鞄を見ると、ブスブスと煙をあげている。あわてて鞄の肩紐をつかみ、一気にドブ川の中へ引きずり込んだ。
 
鞄は直火によって焼かれたものでなく、熱気によってこげ焼かれたものであったが、川に漬けると、地面に接していたところ以外は炭化していたため"ぼろぼろ"と水の中で崩れてしまい鞄の中の図書類がはみ出した。
 幸いにも図書類の焼失というものはなく、半焦げのものがほとんどであった。

 
 暗闇の中で避難の一夜、B29の飛来中は、一寸先のこともわからず死の恐怖に怯え、自分の住居や住み慣れた町が灰燼と化してしまうという悽愴の最中、松山城の天守あたりであがる火の手をみては、
 
 「お城が焼けよるゥ‼︎お城が焼けるッ」

 と、共に慟哭した不思議ともいえる松山ッ子の心情。
 
指呼の間にみられた済美女学校の窓から吹き出す猛火と竜巻、火柱となって巻き上がる焔の中で紙片の如く飛び舞い踊る焼けトタン。
 
 江蓮の焔に興奮し、火焔の中に飛び込んでいく馬の狂走。不幸にして逃げ遅れ、防火用水槽の中で重なるようにして亡くなられた人々、凄絶をきわめた空襲は、まさに地獄絵図の再現としか思ない…。
 
 夜が白々と明け始めたころは、そこかしこに鉄筋建ての残骸が残っているだけで、"城下"とよばれていた静かなたたずまいの市街地は完全に焼き尽くされ、異様な静けさだけが漂っていた。
 
 煙のために目を痛めた私と弟は、道端の水溜りや川の💦などで冷やしながら、一里余り離れた母の生家まで荷車を借りに行き、その荷車の上にドブ川の水で濡れた布団を敷き、焼け残った私の図書を枕代わりにして病父を乗せ、母の生家に身を寄せて以来、一週間余り、親子四人、目を開けることができなかったなど、昭和二十年七月二十六日を塗炭の苦しみの日として語り継ぐにしては、余りにも悲恨に満ちた思い出の日となってしまった。
 
 戦争を知らない我が物達は本当に幸せと思う。かくいう私も戦中末期派という旧人類に属するため、微兵検査という経験もなければ、成人式という大人への仲間入り、巣立ちとしての晴れやかな式を迎えたこともない。

 
 今年の職域における成人式の記念品が立派な辞典であったことが「かがりび」で紹介されていたが実にうらやましいかぎり。

 私も数冊の辞書を持ち、常時職場で勝つようしているのは三冊だが、残りは自宅の書棚の中にある。そのうちでも大切にしているのは広辞苑改訂二版ともう一冊。それは
 
詳解漢和大辞典  東京都下谷区西町一番地
木村書店発酵、昭和九年九月十五日初版
昭和十二年九月五日十五版、定価四円五十銭
 
 戦火のなかを潜り抜け、父の声でドブ川の水に漬かりながら焼失をまぬがれることが出来た辞典。
 表紙、裏表紙とも、「みぞ」のところの繊維が朽ち切れ、天と小口が、黒く焼け焦げてくぼんだ辞典、避難のときは父の枕となり、あるときは図体の大きな辞典とだけしか感じない時代をへ、あるときは図書出版ブームで辞典も乱発され、"使いもしないこのような辞典が"と、よほど見放されかけた時代にも、何かしら心に残るものを感じ、手放さずにいた辞典。
 
 
茫然自失、ひとり書棚の前に座り眺めていると、ひなびた背文字をしながらも不思議な色合いをもって浮かびあがっている。
 それは、朽木で出来た野仏のような気配に包まれる。

 
 父から受け継いだ辞典だけに、父の幻像を野仏とみるか、あるいは辞典の霊気を野仏の像とみるかは別として、今はそのじてんを家宝とし、相剋する地代を象徴する二冊の辞典が大同小異の肩を並べ、書棚の一隅に納まっている。

 これらの辞典がこの拙文とともに、息子の腹にこたえるものになってくれることを祈念している。

かかりび   昭和六十三年六月号
                 終

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