銀杏.おさん

 「エエッ、銀杏の狸さん…?」
受話器を手にした当直の黒岩警部補は、お世辞にも長いとは言えない巾広い顎を思いきり前に突き出し、眼鏡越しの細い目を冷たく光らせながら、彼独得の指示で宿直員に、市内地図を開けるよう急かせている。
「銀杏の狸さんと言われてもわからないのですがッ。ええ?群中の駅を…東へ行ったところの信号機…ハイ大体はわかりましたが狸はどこにおるの…エエッ銀杏の樹の下、
"銀杏の樹"なんかあったんかや?」と小言で呟きながら、片手で地図を探す。
 
「確認しておきたいのですが、お宅は?エッ、群中の踏み切りを東へ渡って…すぐの山田さんですかッ、すぐに行きますから、銀杏の樹とやらの下のところで待っていて下さいッ」と、電話を切った。
 
彼の運転する捜査車に乗り込む。
「信号機のところに、銀杏の樹なんかあったかなぁ、なんでもその下にあるたぬきさんの金が盗まれたらしい。いってあみんことには何のことかわからんなぁ…」

走る自動車の中で、彼は電話の内容を説明してくれたが、これを聞いた私も何のことかわからない。
 
ものの数分で、信号機のある交差点に到着した。人通りもまばらである。
交差点を左折すると、通報者は目ざとく私たちに気づいたのか角から二軒目の家の軒下で手を挙げて、合図を送って来た。
 
助手席に座っていた私は、運転をしている黒岩警部補の左膝をたたき、かえす手で軒下の通報者を指差した。
 
 「おおッ、ここかぁ?それにしても狸さんはどこにおるんぞッ!」と言いながら、車を道路の左端一杯に寄せる。真夏の夜とはいえ午後八時ともなれば、闇もしだいに深まり、物影は明かりが欲しい。 
 
ちょうど車を停めた道路端には、三角の形をした約二坪くらいの空き地があり、本通りに面したところには高さ六尺にも満たない小さな鳥居が建っている。
 
艶やかであったであろうベンガラの色も、永年の風雨に晒されたためか消え失せてしまい、笠木の一端は腐り落ちている。
その奥に、直系三尺四、五寸の銀杏のの樹が立っている。
 
 銀杏は、もともと木部の組織が、軟弱な樹であるために腐りやすく、盆栽でも手間のかかるものであるだけに、鳥居の奥の銀杏は、高さ十二尺ほどのところで朽ち果てており、空洞が入っている。わずかに繁っている枝葉は、樹皮の内側の節部を伝い下りた細い毛根によってようやく緑を保っている。
 
その銀杏の樹の下の元に、小さな祠が祭られていた。
 祠の前には、高さ一尺くらいの焼物の狸が二匹と縫いぐるみの狸が一匹置かれている。
「お忙しいときにすみません。さきほど電話をした山田ですが…」
と、それからは順調に話が進み始めた。
ことのなり行きは、町内の有志でお祭りしてあるお狸さんの小さな賽銭箱が盗まれたというものである。 
         続く

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