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なまぬるい者は吐き出される

ここ数日、スポーツ業界に携わる時間がありましたが、世のトレーナーは間違った解剖学や食の知識、また身体操作を学んでいるため、その間違った知識を植え付けられる選手は実に不幸だと感じました。

スポーツ界だけの話ではなく、これは世の中全体に言えることです。
だからこそ、証拠や根拠を求めるのではなく自分自身の感覚に頼らなくてはいけないということです。
根本が嘘なら、それをいくら研究したとしても嘘を掘り下げただけにすぎません。

だからこそ、真実を学び報われる努力をしなくてはいけません。この不条理な世のなかでは、時として血の滲む努力が水の泡となる事があります。
このようなことは、決して少なくありません。

また堕落した精神では、インフルエンサーなどの「楽して◯◯」などを謳う情報に騙されます。
必死にやってもどこかで上級国民とぶつかり潰され、楽をするなら尚更、成功はありえません。

人々が幸せになる方法は、神様を愛して御言葉に従う以外はないのだということです。

では、信仰さえもてば絶対に幸せになれるのかと言われれば、そうとは言い切れません。

熱心に神様を愛して、正しく御言葉に従うならばと付け加えた方が正確な言い方となります。

信仰を持ったとしても、毎日堕落した生活をしていては栄えるはずもありません。
熱心に義を行い、個性才能を磨く為に肉体も精を出さなくてはいけません。
信仰の世界にも血の滲む努力は必要なのです。

人々が考える信仰は、
大事な時にだけ、神社仏閣にいき拝み、生活の中でも自分自身は楽をしているなんてことを、想像する方もいるかもしれません。

正しい信仰の世界は、なにも楽などではなく、むしろ世の考えを植え付けられた人々からすれば、とても厳しく感じる世界だと思います。

それくらい、本当に必死にもがき努力しなくてはいけません。

まずは、楽をして得られるものなどないと、いま植え付けられている、その堕落した精神を脱ぎ捨てなくてはいけません。

実際になかには、御言葉を聞いてみたけど自分にはできる気がしないと感じたり、厳しいと諦める人もいるかもしれません。
しかし、正しく御言葉に従い努力するならば必ず幸せになれるのと、以前味わっていた地獄の人生とどちらがいいのかということです。

信仰をもって厳しいと感じることは、正直何度もありました。しかし、そのたびにRAPTさんや十ニ弟子の方々や兄弟姉妹は、こんなにも辛いことを乗り越えているのかと、自分もこれを越えなくてはと必死になります。

信仰を持てばもつほど、先を行く人々がどれほど凄いかを身に染みます。

もしも御言葉が厳しく感じるのなら、まだ心に堕落した考えが残っているということです。

今の世の中で信仰なしに必死に足掻いたところで、正しく評価してもらえることなど限りなく0に近いです。

神様は正しく評価してくださいます。
自分が正しくやったつもりでも、御言葉から少しでもズレていれば、それは評価されません。それぐらい繊細です。
最初はボロボロです、私もまだまだ完璧ではなく、本当に少しずつズレを無くしていくような感じです。
しかし、気持ちさえしっかりと神様に向いていれば、練達したり様々な方法で正しく導いてくださいます。
御言葉に全て答えはあります。時間を見つけて、日々学ばなければいけません。

このように、信仰の世界は正しく努力するならばきっと報われます。その人の想いや、神様に捧げた全ての正しい努力は、必ず返ってきます。

私はこの法則に本当に救われました。

こうあるべきだと、世の中に対して抱いていた不満が、全て吹き飛ばされた理想の、ずっと私が求めていたものです。
これこそが、人間が心から探し求めている答えではないでしょうか。

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