被服廠跡...震災が奪った愛
伝え聞いた曽祖母の話を差し支えなくボカして小説風に...
浅草から吾妻橋を渡って本所...今からちょうど100年前、
彼女は愛する職人の夫、幼い息子と慎ましくも幸せな日々を過ごしていた。
まだ米も薪で炊く時代、昼飯時の下町はどこも炊飯の匂いと薪の煙が漂っていた。
その日は日本海を北上する台風の影響で、風の強い日だった。
11時58分...突然の激しい揺れで家は倒壊し、着の身着の儘で息子をおんぶ紐で背負い、避難所となる被服廠跡(今の東京慰霊堂)へ。
家を失った下町の群衆が、雪崩をうって避難所へ押しかける。
押しつぶされそうになりながら必死で広場へ辿り着いたとき、背負っていたはずの息子はいなかった。
いつのまにか紐が外れて、群衆の下敷きになってしまったのだろう。
最愛の息子を見失ったことへの不安、自責の念、押し寄せる群衆に逆らって息子を探そう...いや、とても無理だと諦める心の動揺...母としての悲しみ、憤りはどれほどのものだったのだろう。
まもなく、広場に火災旋風が押し寄せる。西から広がった大火災の火の粉が、隅田の大川を飛び越えて被服廠跡で寄り添う群衆に襲いかかった。
阿鼻叫喚の広場で必死に逃げ惑い、気がつくと病院のベッドで寝ていた。隣に夫がいることを確認して、再び意識を失っていく...
目が覚めた時、夫は冷たくなっていた。生き残ったのは、彼女一人だった。
愛する夫と息子を震災で失うことの悲しみは、経験したことのない人には計り知れない。分かろうとすることさえ申し訳ない気がする。
数年後に再婚した曽祖母は、義理の息子となった祖父を大変可愛がったそうだ。大人になるまで何かと世話をやき、後の子孫繁栄の礎をきづいてくれた。
きっと義理の息子に、震災で失った我が息子への想いを重ね合わせていたのだろう。
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