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マシュー・サイド著「失敗の科学」を読み解く - ⑥発生したミスの何を洗い出すべきなのか

さあ、木曜日だ。

木曜日は、マシュー・サイドの「失敗の科学」を読み解いていこうと思っている。ただ、ボクはこの本を読了していない状態でこの記事を書いている。なので、このシリーズはこの本の解説というよりは「リアルタイム感想文+ボクの思考」という内容になって行くだろうと思っている。

ご興味おありの方は、ゆっくりお付き合いいただけると幸いだ。


非難のプレッシャーと非難のバイアス

何か間違いが起きると、人はその経緯よりも「誰の責任か」を追及することに気を取られる傾向がある。それは、失敗した本人から見ると「失敗を非難される」ことで、そのプレッシャーは組織にとって大きな負のエネルギーを生む。

ボクは、この「失敗の科学」のシリーズの「③仮説を正しく検証するためのマインドセット」の中で「認知的不協和」について書いた。認知的不協和とは、「自分の信念と事実が矛盾しているとき状態、あるいはその矛盾によって生じる不快感やストレスのこと。人はその認知的不協和を解消するために、認知に修正を加えて事実を正当化しようとし、その結果として、正しいことがわかっている事実の検証に時間をかけ、無意識のうちにバイアスがかかった検証結果を導き出してしまう。」というものだ。

この「認知的不協和」の対になるのが「非難のプレッシャー」だ。認知的不協和は、失敗をした本人が自分の失敗を隠そうとする内的要因だが、非難のプレッシャーは、自分の失敗を隠そうとする外的要因だ。そして、この非難のプレッシャーは、プレッシャーを与える側から見ると「非難のバイアス(偏見・先入観)」でもある。

誰かを吊るし上げることは簡単だ

ものごとをシンプルに考えることは重要だが、チーム内でミスが起きたときには、必ずしもシンプルに考えることが正しいとは限らない。何か問題が起きたとき、その犯人を吊るし上げて非難することは簡単で、吊るし上げた側は満足感を得ることができる。

しかし、吊るし上げられる側も、黙って非難の的に甘んじることはないだろう。彼の肩を持つ人たちと一緒になって反撃し、場合によっては新たな登場人物を出してきて、矛先を変えようとする場合もある。それは場合によっては泥沼化し、収拾がつかない非難合戦になることも多い。

懲罰の文化の危険性

もう一つ危険なのは「懲罰の文化」だ。
ミスをした人物を特定して、その人に懲罰を与える文化があるチームには、(当然だが)高い認知的不協和と非難のプレッシャーが存在する。そして、それはチーム内に「自己防衛」と「責任転嫁」が蔓延することを許してしまうことになる。

懲罰の文化が存在するチームの中において、最も「自己防衛」と「責任転嫁」が顕著に表れるのは、責任ある立場に就く人物だろう。その文化の中で、彼は「自分がミスをすることはありえない」というスタンスを貫くほかにない。だから、自分がミスをするとその事実を捻じ曲げ、自分以外のところに責任があるように仕向けざるを得なくなってしまう。そんな人物がトップにいるチームに信頼感が生まれるはずがなく、自由で活発な議論が進むはずがない。

誰もがミスをする可能性がある

やはり、チーム全体で「誰もがミスをする可能性がある」というスタンスを取ることが重要だ。その次に重要なのは「全員からバイアスを取り除く」ことだ。

ミスが起きるのは、ミスを起こした「本人のみ」に原因があるわけではない。いくつもの要因が重なり合った結果としてミスが起きるのだ。ミスを起こした本人を吊るし上げるのではなく「ミスの周辺に存在した関係要因」を冷静に洗い出すことが重要だ。

そうすることによって、再発防止策を検討することができる。
懲罰を与えることが再発防止策ではない。

(続きはまた来週)


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