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治安の反比例

「窓割れ理論」というものがある。

綺麗な窓の家より、割れた窓の家の方が、強盗の心理的負荷が小さく、''入りやすい''。
街の環境管理が雑なところだと「ああ、自分も汚してもいいんだ」と、''なりやすい''。

逆に言えば、整頓しておくことで、清潔な習慣を呼び寄せることができる。

と、ここまでは一般論。

個人的に最近思うのは、「治安の反比例」である。
(巷にこんな概念があるかは知らない)

かわいいものをみると壊したくなる
≒キュートアグレッション
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キュートアグレッション

↑に近いのだが、少し違う。端的に言うと、

無条件に''正しさ''に反発したくなる瞬間が訪れる

のである。

単なる、逆張りとも違う。もしかすると、
規則正しさとジャンキーさのバランスを保とうとしているのかもしれない。しかし、、、

・体に''良い''ものを食べたら、''悪い''ものが食べたくなる
・''真面目''に暮らしたら、''不真面目''になりたくなる

↑これら二つの例は、近しいように思えるが、前段に''条件''があるので、少し違う。
これらは単に「良い」を日々体験し、「良い」が日常化していることに飽きている反動的結果にすぎない。

あくまで、無条件に''破壊''しようとする瞬間が不定期やってくる、いわば「内なる暴力性」とも言える。
そしてこれは、誰しもにある微量な「サイコパス性」ではないだろうか。

例えば、、、

・目の前にいる相手の''最も言われたくないであろう''悪口を頭の中で大展開する
・ここで''全て''を投げ出して太平洋の島で暮らそうと思えば暮らせるんだなと考えつく
・迷惑や平和というありとあらゆる概念は実は無いんだと気づく(∵私たちはただ''在る''にすぎない)

みたいな感じ。
なーに言っとるんだ、と言われればそれまでなので、深掘りはできないが・・・

冒頭に挙げた、割れ窓理論とは程遠い話になったが、つまるところ、良いものや悪いものをカテゴライズして、習慣化・常態化すること自体が「危険」なのかもしれない。
そういうことすら考えない、全てを「無」に捉える脳死能力で、生きる。衝動的人生。
そして、自己満。

追記(2022/10/30)
おそらく、無条件な反発は「ひどく客観視する瞬間」なのだと思う。
空想家は、客観視ができない利己的な思想家のように言われるが、彼らがもし脳内でユートピアを客観的に作り上げていたとしたら・・・この点は非常に興味深い。

''実現可能性のある空想を真剣に考える''

#逍遙遊 #無期待#自己満#なんでもいい#好きなように#生きる#死ぬ#何も難しくないはず

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