CURSED LEAF AND DAUNTLESS BLADE 4
暗く湿った地下通路に響いていた弱々しい足音が止む。襤褸をまとったミコッテの少女はひとり途方に暮れていた。恐ろしい化け物の餌食になる寸前、誰だかわからない女に助けられ、必死で階段を駆け上がった。しかし、先の見えない通路と扉のどこへ進もうとも、彼女は自分が助かる光景を思い描く事が出来ない。闇は何より恐ろしい。
それでもなお、少女は壁に手をつきながら、一歩一歩歩みを進めた。死にたくない。ママのところへ帰りたい。わずかな願いを杖に地上を目指した。耳を倒し、聴こえてくる不気味な笑い声を無視した。やがて闇の中から登り階段が姿を現した。
少女は意を決して階段へ駆けた。裸足の頼りない足音が回廊に響く。少女の視線の先、階段の入り口がどんどん近付いてくる。不意に、その光景が黒く塗りつぶされた。わずかな灯りを吸い込むようなどす黒い粘液が柱となって立ち上がる。やがてそれは角と翼を備えた異形となった。少女は知る由もないが、階下の禁書《無銘祭祀書》に惹かれ現れた妖異である。
少女は悲鳴をあげ、その場に倒れた。恐ろしい。やはり助からないのだ。恐怖が心を塗りつぶし、その目と耳を塞いだ。だから、彼女の耳には届かなかった。階段を駆け降りてくる力強い靴音が。
「たぁぁーーーーッ!」
《ギィヤァァァァーッ?!》
少女は目を開き、見た。妖異の胸から突き出た光り輝く剣を。少女は見た。断末魔と共に霧散した妖異の向こうに、剣を構えた編み込み髪の娘が立っているのを。少女は見た。恐ろしいまでに決断的な顔をした娘が、自分と目を合わせた瞬間、優しく柔和な笑顔に変わったのを。
「……見つけた!あなたですね!」
娘は倒れた少女に駆け寄り、治癒魔法を施した。暖かなエーテルが少女の体に流れ込み、恐怖と絶望が払われていく。
「……無事でよかった。わたしはソフィア。あなたは?」
「え、えと、ジャ・ラルバ……だよ」
「ありがとう。……怖かったね、ジャ・ラルバ。でも、もう大丈夫」
ソフィアはジャ・ラルバを優しく抱きしめた後、そのまま一気に己の肩へ少女を担ぎ上げる。そして階段の上を睨み、空いた手で剣を持った。
「捕まってて!絶対に、助けるから!」
異様な気配があらゆる場所から漂っている事は、ジャ・ラルバのような少女にも感じ取れた。やはり恐ろしい。それでも、ソフィアがきっと自分を守ってくれるだろうという安心感がそこにあった。だから、少女は思い至った。もうひとり、助けてくれた人がいた事を。
「待って!」
「どうしたの?!」
「私を助けてくれた人、下にいるの!ツノのある、おねえちゃん!」
「なんですって?!」
ソフィアは駆け出すのを留まり、状況判断する。館に突入した時に聞こえてきた、アウラの女という言葉。その彼女は、まだ下にいる。恐らくは、戦っているのだ。この事態の元凶と。
ソフィアはジャ・ラルバがやってきた方向を見やる。禍々しい気配がある。壁を、天井を見やる。再び生えてくる妖異達。
「——今は、まずあなたを」
ソフィアは肩に担いだジャ・ラルバの瞳を見据え、伝えた。少女は頷き、目を瞑った。
《シャアァァァァーッ!》
「やぁぁぁぁぁーッ!」
壁から二人に襲いかかった妖異を、ソフィアは右手の剣で斬り捨て、駆け出した。階下にいる名も知らぬ戦士に、叫んだ。
「必ず戻りますッ!」
ソフィアはエーテルの翼でジャ・ラルバを包み込み、光り輝く剣で妖異を斬り裂きながら、地上を目指した。
◆◆◆
「う……」
イズミは呻き、目を開いた。傾いた視界。大理石めいた地面は夥しい紋様で埋め尽くされている。それを嵐の如き闇色の渦が取り囲む広い空間。そんな場所にイズミは倒れていた。——寒い。イズミは己の身体から生きるための熱が奪われていると感じた。人がいるべきではない空間に、自分はいる。
イズミは己を強いて身体を起こす。足元を覆う紋様や空を覆う渦には意識を向けないよう努めた。ここは《無銘祭祀書》の中。地面も渦も全てが禁書そのもの。そこに記された文字列など、見つめるだけで発狂してもおかしくないのだ。そう、イズミにとって禁書の内容などどうでもよかった。そこに潜む者にこそ用がある。イズミは立ち上がり、まっすぐ前を見た。
空を覆う闇色の渦は、その極点から細い糸のような闇が垂れ下がっている。長く伸びたその糸の先、円形空間中央にそれはいた。闇の糸を束ねた球体に腰掛けたそれは、一見すれば物憂げな表情を湛えた若い男にも見える。だがその肌は屍人の如く生気を感じさせず、頭部に備わった角はその四肢同様ひどく捻くれていた。妖異学者ならばその風貌から妖異十二階位の第三位《フォルガル》に連なる存在であると看破したであろう。歴戦の冒険者であれば、禁忌都市マハの筆舌しがたい惨劇を聞いた事があるだろう。だが、イズミにとってはそこも重要ではなかった。
「見つけた」
イズミは刀に手を掛け、妖異を見据えた。
「あの時の、一匹」
イズミは抜刀し、憎悪を滾らせた。対する妖異は顔を上げ、イズミを見た。首を傾げ、声を発する。
《……ふむ。お前、生贄だな》
妖異の濁り切った瞳には、イズミの魂に刻まれた傷が見えていた。
《あの時……うぅむ、すまんな。覚えておらぬ》
妖異は雑談のように語る。イズミは歩き出す。
《しかし、どこかの食べ残しがわざわざ舞い戻るとはな》
妖異は肩をすくめ、苦笑した。イズミは歩みを進める。
《うむ、少し待っておれ。まだ咀嚼しておるでな》
妖異が指を振ると、腰掛けていた闇の球体に隙間が生まれた。球体の中には、肉塊としか呼べないものがある。わずかに見えた骨が、それが人であった事を示していた。イズミの脳裏にばら撒かれていたルガディンの四肢が思い起こされ、すぐに消えた。どうでもいい。
「黙れ」
イズミは歩みを早め、刀を振るった。練り上げた体内のエーテルが解放され、その剣に宿る。
「殺してやる」
吐き出される強い言葉とは裏腹に、イズミの理性は最大限の警告を放っていた。寝込みを襲えなかった時点で勝ち筋は消えている。子供を見捨て、奴が眠りに落ちるまで出直すべきだったのだ。今からでもこの空間を逃げ出す事を考えるべきだ。全てわかっている。全てわかった上で、憎悪がそれを塗り潰した。仇を前に尻尾を巻いて逃げるなど、断じて否である。
「殺してやるッ!」
イズミは地面を蹴り、駆けた。一気に間合いを詰め、球体に腰掛けたままの妖異に斬りかかる。一閃。妖異のねじくれた爪が刃を弾いた。二閃。歪みきった掌に傷を負わせた。三閃。渾身の突きが妖異の腹を破り、どす黒い血を噴き出させた。やれる、とイズミは確信した。イズミは乱れ雪月花の構え。一の太刀で首を飛ばし、二の太刀で核を砕く。イズミの持てる力全てを乗せた白刃が閃き、妖異の首に衝突した。——衝突したのだ。
「嘘」
鈍化した主観時間の中で、イズミは驚愕した。腹を裂いた感覚とはまるで違う、鋼鉄の柱を殴りつけたような感覚。首は飛ばなかった。二の太刀に繋げられない。そしてイズミは見た。妖異の腕が振るわれ、自分を打ち据えようとしている様を。恐怖が憎悪を塗り返す。掲げた左腕は防御にすらならなかった。左腕の尺骨と橈骨がへし折れていく感覚が最後だった。妖異の平手に打ち据えられたイズミは跳ね飛ばされ、冷たい床の上を壊れた人形の如く転がり、動きを止めた。
《思ったより元気ゆえ、硬質化の調整が難しくての》
妖異がひらひらと手を振ると、腰掛けた球から闇の糸が腹の傷へ伸びていく。イズミが負わせた手傷はあっという間に修復された。《無銘祭祀書》に溜め込まれたエーテルもまた、妖異の力の源であった。
《そこで待っておれ、食べ残し。……もう聞こえておらんか?》
妖異はからからと笑い、食事に戻った。仰向けに転がるアウラの瞳には、渦巻く闇だけが映っていた。
——夏の陽射し。抜けるような青空。入道雲。宿場町。イズミの脳裏に浮かぶ、故郷の風景。瞬きするたび、景色は巡る。裏山。秘密の抜け道。小川。巨木。地蔵。いつもの丘。駆けていく子供達。幼い自分も、そこにいる。
夕暮れ。洞窟の入り口。子供達は恐る恐る中へ入る。度胸試し。イズミは手を伸ばす。届かない。決して。
洞窟から逃げてくる幼い自分。泣いている。ひとりだ。やがて洞窟から闇が拡がる。闇が全てを塗りつぶした。
闇の奥に何かが転がっている。子供達。眠っている?違う。手足が足りない。食い散らかされた後だ。闇よりなお昏い影が五つ。悍ましき妖異達が哄笑する。炎が上がった。子供達は炎に飲まれ、消えた。
炎は山を焦がし、町を飲み込み、何もかもが失われた。ただ、妖異達の笑いが響いた。イズミは血の涙を流し、それを見つめ続けた。影の一つ、若い男めいた妖異は、いま現実のイズミの前にいる。
イズミは消えゆく己の魂に、憎しみの火を灯した。慈悲深い脳内麻薬に抗い、手足の感覚を呼び起こす。苦痛が戻って来る。だが、その苦痛こそ生きている証だ。イズミは耐え難い苦痛を手繰り寄せ続けた。憎しみの火は炎となって燃え上がり、幻は彼方へ消えた。
イズミの視界に渦巻く闇が戻って来た。砕かれた左腕が燃えるように熱い。立ち上がれない。よしんば立ち上がれたとして、あの妖異を狩る術をイズミは持ち合わせていない。万策は尽きた。ただ、殺される為に戻って来たと言うのだろうか?
否である。
イズミは握り続けていた刀を置き、震える右手を天に掲げた。その瞳を、意識を、渦巻く闇にはっきりと向けた。闇の渦が、イズミに引き寄せられる。
「うっ……うぁっ……あっ、アッ、アアッ」
ここは《無銘祭祀書》が作り出したエーテル空間。渦巻く闇も、大地の紋様も、すべてが禁書のページそのものだ。文字列を直視するだけでも正気を失い狂気に落ちる。だが、そこには確かにあるのだ。この世ならざる秘密結社の真実、悍ましい魔物の使役方法、そして、妖異を殺す未知の術が。
「あああッ!うぁぁぁぁーーッ!いや……いや!」
闇の渦を纏ったイズミは血の涙を流し絶叫する。動かぬ体ががくがくと震える。彼女は魂で直接読み取っているのだ。妖異学者が何年もかけて狂気と闘いながら読み解く禁書を。冒涜的な情報の洪水に呑まれながら探しているのだ。この憎悪を刃と成す術を。
「あああぅぅぅ……殺して……ころ、殺してッ……!」
その叫びを、のたうち回る生贄を、妖異は冷めた目で見ていた。
《うるさいぞ》
あの生贄は締めておく必要があると判断し、指先に魔力を集める。
「殺してッ……殺し……殺………」
《わかったわかった》
指先からエーテルの矢が放たれた。
「…………殺すッ!」
イズミは腕を振り、エーテルの矢を弾き返した。跳ね返された矢が妖異の頬を切り裂き、虚空へ消えた。
《……何だ?》
妖異は訝しんだ。イズミは立ち上がり、咆哮を放つ。
「うぅあぁぁぁぁぁッッ!!!」
その眼は狂える炎が輝いていた。闇の渦が弾け飛び、凄まじいエーテル放射が空間を揺らす。イズミは頭を抱え、ぶるぶると震えた。
「あぁ……あぁぁッ!!!」
ばきん、と砕けるような音と共に、イズミの側頭部が弾けた。ばきり。ばきり。アウラ族の白い角が捻じ曲がり、異様な形に拡大されていく。
「ぐッうぅぅぅぅッ……だぁぁぁッ!!!」
腕が、脚が禍々しく変貌していく。肌を覆う鱗が歪み折り重なり、異形の拳足を形作った。だが、砕かれた左腕はだらりと垂れ下がったままだ。
「うぅぅぅぅッ……あぁぁぁぁぁッ!!!」
イズミは予備の刀を抜き放ち、その刃を左腕に押し付けた。左腕の肉が裂け、血が噴き出す。異形の鱗が刀身を取り込み、骨と成した。これで、闘える。
イズミはゆっくりと顔を上げ、闇の球体に腰掛ける妖異を睨んだ。その身体がゆらりと傾き、消える。次の瞬間、イズミの飛び蹴りが妖異の胴体に突き刺さっていた。
《ぐぅぅぅッ?!》
想定外の一撃を喰らった妖異は、顔を歪ませ前のめりになる。そこにイズミの右拳が叩き込まれる。妖異は自らの牙が砕けている事を自覚した。——この私が生贄如きに?その憤りが硬質化魔法の発動をコンマ2秒遅らせる。イズミには充分な猶予だった。引き絞られた左拳が妖異の顔面を捉える。砲弾の如き衝撃をまともに喰らい、妖異は数フルム吹き飛ばされた。大地に引き摺り下ろされた。
《貴様ァ……!》
妖異の濁りきった目に怒りが宿った。イズミは獣めいた前傾姿勢でじりじりと間合いを詰める。二股に裂けた尾が激しくのたうっている。
妖異は砕かれた顎に手を翳し、端正な顔を再構築した。背筋を伸ばし、己の胸に手を当て、口を開く。
《高貴なる私に泥を塗った罪、万死に値する!貴様はこのキマリスの手で——》
「ガァァァァッ!」
キマリスと名乗った妖異の口上をイズミの拳が遮る。キマリスは咄嗟に防御し直撃を防いだ。
《きっ、貴様ァ!話の途中——》
「黙れぇぇェェェッ!」
イズミの拳が怒涛の勢いで繰り出される。キマリスはそれを迎撃し続ける。反撃のタイミングが掴めない。キマリスは苛立たしげに叫ぶ。
《なんたる野蛮!貴様には戦士の誇り——》
「黙れ、黙れ、黙れェェェッ!!」
イズミは憎悪を爆発させ、拳を繰り出し続ける。変貌を遂げた巨大な拳が硬質化した妖異の肌にぶつかり砕かれる。その度拳はめきめきと変形し、その形を保った。幾度も、幾度も。
「話だと?!誇りだと?!笑わせるなッ!!!」
イズミは吠え、圧倒的な速度で殴り続ける。キマリスは硬質化を解く暇がない。
「理不尽に殺されるのが怖いか?!お前らが、お前らが散々やってきた事だろうがッ!!!」
連打。連打。連打。キマリスのガードが崩れた。イズミは右脚に憎悪を込めた。
「私が教えてやるよ……恐怖を……絶望をなァ!!!」
稲妻のような蹴りがキマリスの首めがけて放たれる。
《舐めるな!下等生物がッ!》
キマリスは強引に体勢を立て直し、猛烈な勢いで蹴りを放った。ふたつの蹴り足が交錯し、凄まじい衝撃が空間を揺らす。刹那の鍔迫り合いを演じたふたりは互いを蹴り飛び離れた。
回転着地したイズミは脚の鱗状装甲が砕かれている事に気付く。即座に瞳の炎を燃え上がらせ、装甲を復元した。苦痛が全身を駆け抜ける。禁書から得たこの力のリソースは、他ならぬ自分の命そのもの。差し出せるものなど憎悪で灼かれた魂しかない。構わない。死ぬ前に殺せばいいだけだ。イズミはただそれだけを願い、駆け出す。地面を砕き、キマリスへと迫る。
一方のキマリスは大仰な動きで埃を払い、落ち着きを取り戻そうとした。苛立ちを鎮め、虚無的な表情を血の気のない貌に張りつける。高貴なる自分が生贄如きに遅れを取るなどあってはならない。そう言い聞かせ、おもむろに両の掌を合わせた。人の理から外れた呪文を唱え、練り上げたエーテルを目の前の獣に向けた。
《メギドフレイム!》
極大の怪光線。イズミは研ぎ澄まされた闘争本能によって、これを回避。だが直撃せずとも、メギドの炎熱は容赦なくイズミの鱗を焼き焦す。第二射。尾が焼かれた。復元する。第三射。体勢を崩した。第四射。避けられない。イズミは両腕の装甲に力を注ぎ、踏み込んだ。獣は光芒に呑み込まれる。
「うおぁァァァァァッ!!!」
身体が焼かれる。だが、それでもイズミは両脚にあらん限りの力を込め、そのまま突き進む。光芒が途切れた。イズミは目の前の妖異が恐れ慄くのを確かに見た。距離を離すべく後方へ飛ぼうとする動きを、見た。
「逃すかァ!」
イズミは飛び立とうとしたキマリスの足を掴んだ。そしてそのまま、妖異の身体を地面に叩きつける。歪んだ角が砕け散った。
《グワァァァァァーーーーーーッ??!!!》
キマリスが絶叫を上げる。久しく経験していなかった激痛は妖異の精神を著しく掻き乱した。
「死ねッ!死ねッ!死ねぇぇェェェッ!」
イズミは倒れたキマリスに跨り、狂える瞳を輝かせながらパウンド連打を叩き込んだ。キマリスはもはや硬質化の術を唱える余裕すらない。一撃ごとにエーテルが霧散し、妖異の肉体が崩れていく。
「終わりだァァァッ!」
イズミは拳を一際強く引き絞り、キマリスの頭蓋を完全に砕く一撃を構えた。キマリスは戦慄した。イズミは知らぬことだが、その構えはヴォイド暗黒拳技の処刑技《ジキツキ》そのものであったからだ。まともに喰らえばキマリスの復元能力は追いつかず、爆発四散は免れない。だが、その技の隙の多さもキマリスは熟知していた。キマリスは己を強いてエーテルを練り上げる。詠唱破棄。
《ヘルウィンド!》
キマリスからヴォイドの暴風が放たれ、イズミの体勢が崩れた。正しく詠唱していればその一撃で生贄の身体をばらばらに粉砕出来たであろう。だが、今のキマリスにとっては都合が良かった。もはや一撃で慈悲深く殺すことなど考えられない。キマリスはマウント体勢を振り解いた。
《貴様が……死ねぃ!》
キマリスの拳がイズミの顔面に叩き込まれた。異形の角が砕け散り、霧のような血飛沫が舞った。イズミの眼から狂える炎がかき消え、その体は崩れ落ちる。そして今度はキマリスがイズミを踏みつけ、見下ろす。キマリスはイズミの胸に置いた足に万力のような力を込めた。イズミの角に骨の軋む音が聞こえてくる。
「うあァァァァァッ!あッ、あぁぁぁ…..ッ!」
イズミは堪えきれず悲鳴をあげる。血と涙で汚れ、苦痛に歪む顔がキマリスの心を僅かに慰めた。
《我に歯向かう愚か者め……楽に死ねると思うなよ!!!》
キマリスの顔に蜘蛛の巣のようなヒビが走った。血が流れ、ヒビが広がり、頭部が粘液を垂れ流しながら変形していく。それはまるで悍ましい肉の花の如し。花弁の中には無数の牙と触手が並び、その中央には目玉のような核があった。
《その四肢を、臓物を、生きたまま絶望と共に喰らい尽くしてくれる……》
キマリスの濁った声が響き、狂気の頭部がイズミの身体に覆い被さっていく。イズミは抵抗を諦めたかのように動かない。狂える瞳の炎も燃え尽きようとしている。キマリスの牙がその腕に達する。狩人よ。哀れな娘よ。万策どころか魂までも燃え尽き、もはや蹂躙を待つだけなのか?
否である。
イズミは目を開き、狂える瞳の炎を今一度輝かせた。残った力を左腕に込めて突き上げた。その掌は、花弁の中央、妖異の核を掴んだ。
《グガッ……?!》
キマリスは訝しんだ。
「……死ね」
イズミはそれだけ呟いた。瞬間、掌から凄まじい速度で刃が射出され、キマリスの頭部を貫いた。——それは、砕けた左腕の支えとした刀であった。その刃の先には、妖異の核があった。キマリスの身体から一切の力が抜けた。
イズミは抜け殻を蹴り、立ち上がる。狂える炎は完全に消え去り、四肢を覆っていた異形の装甲はぼろぼろと崩れ落ちていく。その下の腕は、足は見るも無残な有様であった。だが、まだ倒れるわけにはいかなかった。イズミは地面に転がった刃からキマリスの核を抜き取り、拾い上げた。向こう側が見えるような孔が穿たれているというのに、まだ僅かに脈動していた。
イズミは口の中で冒涜的な呪文を唱え始めた。眠りの中にいる妖異どもを焼き滅ぼす秘術。長く複雑な術式が成立し、掌に黒い炎が宿った。核がぶすぶすと燃えていく。この術に囚われてしまえば、もはやヴォイドへ逃れる事は叶わない。
《オオオ……呪われよ……呪われよ……》
「うるさい。もう呪われてんだよ」
脳内に響くキマリスの恨言に構わず、イズミは術式を維持し、核を燃やした。そして問うた。
「お前の仲間はどこにいる。答えろ」
《ウゥゥゥ……口惜しや……》
「答えろっつってんだろ」
イズミはさらに核を燃やした。これは交渉ではない。魂への尋問だ。抗う術など存在しない。
《アァァァァァァ……我らは……この地に……エオルゼアに潜んでいる……》
「もっと具体的に言え」
《アァァァァァァ……ウゥゥゥゥ……》
イズミの脳裏に見知らぬ景色が流れ込む。図書館、洞窟、古城……。だが、あまりにも断片的であった。
「……ここまでか。まぁいい」
《アガガガッ……アババババッ……》
「じゃあね」
イズミは核を握り潰した。脳内に断末魔が響き、遺された骸と乗り捨てられた暗黒球体は爆発四散した。爆風がイズミの短い髪を揺らし、通り過ぎた。イズミは、ただ立ち尽くしていた。
びしり。空間が軋む。要のキマリスが滅んだ事で禁書内空間が崩壊を始めていた。びしり、びしり。大地はひび割れ、闇の渦は徐々に狭まってくる。びし、びし、びし。空間の綻びがいくつも現出する。渦に呑み込まれた場合の末路など推して知るべし。綻びに干渉し、脱出しなければならない。
イズミは綻びに近付こうと足を踏み出した。だが一歩踏み出した瞬間、その身体は前のめりに倒れた。イズミの目には、突如地面が起き上がったかのように感じられていた。遅れてやってきた痛みがイズミの平衡感覚を呼び戻す。投げ出されたぼろぼろの腕を見る。血を流し過ぎた。
己を強いて顔を上げ、上体を起こそうとする。だが、力が入らない。芋虫のように這いずるのがやっとだ。血は更に流れていく。空間の綻びは目の前だというのに、手が届かない。伸ばした腕が限界を迎え、どさりと落ちた。
「くそッ……」
イズミは唇を噛み締め、呻いた。
「ここまでなのかよ……私は……」
闇の渦は容赦無く空間を削り取っていく。数秒後の保証すら無い状況だった。イズミは綻びを見つめる事しか出来ない。不意に、イズミの脳裏に階段を駆け上がるミコッテの少女が思い起こされた。無事だろうか。イズミは名も知らぬ少女の事を思った。彼女を助けなければ、一旦出直していれば、ここまで無茶な戦いを強いられる事は無かっただろう。それでも身体が勝手に動いてしまった。自己犠牲と博愛——違う。同じだったからだ。あの日の自分と。救いたかったのは——。
「……馬鹿だなぁ、私」
イズミは自嘲した。妖異を追い詰めて、殺して、殺して、殺すだけが今の自分であると思い出し、笑った。——あぁでも、本当は、本当は。
ばきん。ひときわ大きく空間が軋んだ。いよいよ終わりが近い。イズミは目を閉じ、覚悟を決めた。ばきん!また大きな音がした。ばきん!!空間の軋みでは無い。なにか別の音であった。イズミは顔を上げて目を開き、空間の綻びを見た。
綻びに、人の指がかかっていた。
「……え?」
ばきんっ!!綻びが破砕音と共に砕け散り、虚空から人が飛び出して来た。白い鎧を纏い、橙色の編み込み髪をした角の無い女だった。女は器用に受け身を取り、砕けた地面に華麗に着地した。青い外套をたなびかせ、顔を上げた。まだ少女といってもいい顔立ちだった。イズミと、目が合った。
「……え?」
イズミは呆けた声を出した。少女はイズミの存在に驚きを見せつつ、素早く周囲を見渡し沈思黙考。そして地に伏したイズミに駆け寄り、その身体を抱き起こした。イズミの全身に激痛が走る。
「うあァァァッ!ああァァァァッ!」
「ごめんなさい!状況判断です!」
少女は謝罪しながら、しかし決断的にイズミを抱えて綻びに飛び込んだ。真っ暗な闇の中に輝く僅かな光を目指し、少女は飛んだ。やがて光が広がり、ふたりは土の上に投げ出された。《ヘールゲーツ》の儀式の間だった。イズミはもはや言葉にならない呻き声を絞り出すしかなかった。
「ごごごめんなさい!いま治癒を!」
編み込み髪の少女は騎士剣を抜き、治癒魔法を行使した。イズミの痛みがわずかに遠ざかり、意識がはっきりとしてきた。癒し手ではない少女に出来る精一杯の野戦治療だった。
「な、何なの……あんた……?」
イズミは倒れたまま問うた。頭が追いつかなかった。少女はハッと顔を上げ、にこりと笑った。
「申し遅れました。わたしはソフィア。ソフィア・フリクセルです」
「え……?ソフィアだって?」
イズミは訝しんだ。その名は、街角のポスターに添えられた英雄の名であったからだ。しかし、イズミの記憶の容姿と、目の前の少女は似ても似つかない。
「冗談でしょ。英雄様はもっと……」
もっと筋骨隆々だろうと続けようとしたところで、びしり、と空間が軋む音がした。禁書のエーテルが制御を失い、暴走している。のたうつ暗黒の奔流が二人に襲いかかった。
「危ないッ!」
ソフィアはエーテルの翼を広げ、魔法障壁を展開。青く輝く翼に暗黒の奔流は受け流され、消えていった。イズミは驚愕し、納得した。
「本当に、英雄……」
「……そんな大したものではありません。行きましょう」
然り。禁書はまだ暴走している。ここが危険な事に変わりはなかった。ソフィアは治癒魔法を継続しながらイズミを背負い、地下通路を駆け出した。イズミには少女の小さな背中がとてつもなく広く感じられた。
「……なんで、助けたの」
イズミはぽつりと問うた。ソフィアはよく通る声で答えた。
「誰かを助けるのに、理由なんかいりますか?」
イズミは面食らった。そんな英雄譚のようなセリフを、臆面もなく吐ける人間がいるとは思っていなかったからだ。ソフィアは暗い地下通路を迷いなく駆けていく。階段を登り、地上へと戻っていく。そしてイズミはあの少女を思い出した。
「あの娘は……無事……?」
「えぇ、無事です」
「そっか……良かった……」
「あなたの、おかげです」
ソフィアが感謝を述べる。闇を見据えるその表情は尊敬に満ちていた。
「わたしだけでは救えませんでした。あなたが彼女を救ってくれたから、わたしが繋ぐ事が出来た」
階段を更に駆け上がる。イズミの角に、微かに地上の喧騒が聞こえて来た。
「どうか誇ってください。えぇと……」
名を問われたイズミはすぐに答える事が出来なかった。階段の先にある光が、イズミにはぼやけて見えた。ソフィアの肩に回した腕が震えた。
「……イズミ」
震える声で、名乗った。
「私の名前は……青葉のイズミ」
「イズミさんですね。改めて、感謝を」
地の底で爆発音がした。ソフィアは在らん限りの速度で走った。階段を抜けてロビーに出たところで、地下は暗黒の奔流で何もかも吹き飛ばされてしまった。ソフィアは必死で走り、どうにか館を脱出した。
「はぁはぁ……これで、全員……!」
ソフィアはイズミを背負ったまま、ぜぇぜぇと息を荒げて立ち尽くした。イズミは緊張の糸が切れ、ソフィアの背中にもたれる事しか出来ない。館の周りの道は野次馬だらけであり、それを不滅隊がどうにか制御している状態だった。暁を迎えた空は明るくなり始めていた。
「ソフィア!無事だったか!」
ソフィアが顔を上げると、そこには見知った赤毛のミコッテ、キ・ヤル・ティアがいた。無事を喜ぶ笑顔と無茶を咎めたい心の両方がその顔に出ていた。
「えぇ、ご心配をおかけしました」
「そいつが、例のアウラか?」
「えぇ、イズミさんと言いまして……」
ソフィアとキ・ヤルのやりとりを聞いていたイズミは、キ・ヤルの後ろから不滅隊員が走ってくるのを見た。イズミは悪い予感がした。
「ソフィア中闘士!お疲れ様であります!」
「はい、お疲れ様です」
生真面目そうな士官は右手を胸の前に掲げ敬礼した。ソフィアも会釈を返す。士官は書類の束をめくりながら、ソフィアに問いかける。
「……今夜の事件はとんでもない事になりました。この館だけではありません。あちこちで不可解な事件が起こってます」
士官はちらりと、ソフィアの背のイズミを見た。イズミは思わず目を逸らす。
「……その背中の方は、どこのどなたです?」
イズミの予感は的中した。心当たりが多すぎる。逃げるか。そんな力は残っていない。イズミは無意識に手に力を込めた。それを感じ取ったソフィアがこちらを向いた。意志の強そうな青い瞳が、にこりと笑った。ソフィアは士官に向き直り、答えた。
「この方は、わたしのリテイナーです」
「……なんですって?」
士官は予想外の返答に固まった。イズミもまた、同じだった。——何言ってんの?!その言葉が喉まで出かかった。
「そうですよね?キ・ヤルさん?」
「あァ?……あぁ、そうそう。届けが遅れててよ。最近メンバー入りしたんだよ」
「誘拐事件を追うにあたって、キ・ヤルさんとは別動で動いてもらっていたんです。おかげで、誘拐された子供達も、全員無事に助けられました!」
「ほ、本当ですか?いや……でも……」
「この方の……イズミさんの身分はわたしが保証します!大丈夫ですッ!」
「わっ、わかりましたよ!でも無茶な捜査は程々にしてくださいよ?!」
「えぇ、肝に銘じます!」
ソフィアはニコリと笑い、再び会釈した。士官は最後まで腑に落ちない顔をしていたが、やがて別の士官に呼ばれてその場を去っていった。
「……銘じる肝なんかあるのかよ。お前」
「ありますよ!失礼な!」
憤慨するソフィアの背中で、イズミは安堵していた。不可抗力とはいえ、今夜は相当やらかしている。正直なところ、何人斬ったか覚えていない。
「……でかい借りが出来たね」
イズミはソフィアの背中から降りた。かろうじて歩ける。痛みが消えているうちに、病院まで向かわねば。
「庇ってくれて、ありがとう。なんかで、返すよ」
イズミはソフィアとキ・ヤルに深々と頭を下げ、踵を返した。
「じゃあ、またどこかでね。英雄様」
「何をおっしゃってるんです?」
ソフィアの素朴な声に、イズミは振り返った。ソフィアはにこりと笑い、続けた。
「イズミさんは、わたしのリテイナーですよ?」
「……はぁ?!」
イズミは思わずキ・ヤルを見た。諦めろ、という顔をしていた。ザナラーンの太陽が地平から登り、砂都の城壁を照らし始めた。
【了】
エンディングテーマ
The Birthday / 涙がこぼれそう
続編
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?