寒夜のこと
ネタバレ警告
目を開けると、そこには帝都ガレマルドの灰色の空が視界いっぱいに拡がっていた。耳には隣接ブロックを徘徊する無人兵器の駆動音が微かに聞こえてくる。生きて動いているものは何ひとつ残っていない。僅かに生き残っていた避難民もさっきの爆発でみんな死んだ。感じられるのはくろがねの鎧の背中を通して伝わってくる、舗装された道の冷たさ。それだけだった。
わたしは仰向けの態勢からどうにか起きあがろうと、帝国兵の指先に力を込める。アシエン・ファダニエルの策略により、名も定かではない兵士の肉体がいまのわたしの肉体だった。立ち上がらねばと更に力を込める。しかし同時に湧き上がった抗い難い悪寒がわたしの臓腑を駆け抜けていく。頭をすっぽりと覆う鉄兜の脱ぎ方は未だに判らず、どうにか横を向いたところでそれは解き放たれた。兜の隙間からぼたぼたとこぼれ落ちる血と吐瀉物。酸鼻を極めるその匂いがわたしの気力を容赦無く奪っていった。
尚も起き上がれないわたしは、それでも地面を這って身体を引き摺る。身体はまるで動かない。本来の身体を奪われ、あらゆる技能を封じられてしまえば、人はこんなにも脆く弱いのだ。自分の体を奪ったゼノスを止めなければ。魂がいくらそう吠えれども、現実は芋虫のように力なく這いずるだけだった。
いくらなんでも無理だ。このままでは死んでしまう。ブレインジャック。かつてその身に受けた経験を踏まえれば、この状態は永続ではない。あと数秒待てば身体は元に戻るのではないか。そうでなくてもわたしの不在に気付いた仲間達がこちらに向かっているかもしれない。立ち上がって追いかけて、ゼノスを前にして、この身体で何が出来る?そう、この身体。この身体はわたしのものではない。これ以上、誰とも知らない身体を酷使するわけにはいかない。だからもう、この身体で出来ることは、ここまで。ここまでなんだ。
甘く暖かな推論が頭の中を覆っていく。それは生命の危機に瀕した身体が発した訴えだったのかもしれない。指先に込められていた力が抜けていく。身体を引きずることすら叶わなくなっていく。わたしは鉄兜の狭い視界の中で目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、キャンプ・ブロークングラスにいる暁の仲間達。派遣団のみんな。各々が何か話している。やがて彼らは遠くからやってくる「わたし」に気付く。みんなは「わたし」に笑顔で駆け寄る。「わたし」は笑顔でそれを出迎えながら、手に持った剣で—
わたしは目を開き、手放しかけた意識を呼び戻した。忘れかけていた全身の痛みが再び襲ってくる。それに真っ向から受け止めた。護ると誓ったのに、何を甘えたことを言っているのだ。悲鳴をあげる自らの弱い心を叱咤するように、痛みを飲み込み、心を克己させた。進まなければ、行かなければ。
気力を振り絞り、わたしは立ち上がった。ただ立っているだけでも気を失いそうだった。鎧の下にどれほどの傷があるのか、考えたくもなかった。もとより考えている場合ではない。
そして、わたしは呼吸を整え、告げなければならない言葉を告げた。
「この身体の…本来の持ち主の…あなた」
わたしは出来る限り声を張った。何も感じられない、何もない空間に。そこにいるかもしれないのだから。
「ごめんなさい。わたしは…これからあなたの身体を…潰します」
この上なく残酷で一方的で自己中心的。あぁ、英雄が聞いて呆れる。
「わたしの成すべきことなど…あなたには全く関係ないのに」
もうこの身体に宿っていた魂は星界に帰ったかもしれない。だがそんな甘い考えで、罪から逃げてはならない。
「ごめんなさい。全てはわたしの力不足です」
そうだ、わたしは、この上なく弱い。強くなったはずなのに、たくさんのものが掌をすり抜けていった。
「…あなたのことは、決して忘れません」
だからせめて、覚えていよう。わたしはそこまで告げて、改めて深呼吸した。廃墟は何も返さない。ただ徘徊する無人兵器の駆動音が聞こえてくるだけだ。
わたしは両の足に力を込め、一歩ずつ歩む。これまでの戦いで学んだあらゆる技能は封じられている。だけど、それを使いこなしていた記憶は失われていない。エーテルが練れなくとも、この身体に宿る生命エーテルをかき集めれば、僅かでも術式が作動すれば、その僅かを繋ぎ合わせれば…この1フルムの道のりの間だけ生きていられれば、それで充分だった。
痛みは遠のき、絶望は晴れていった。消えかける寸前の生命が見せる輝きに他ならなかった。一歩、また一歩と、徐々に歩みは速くなる。名も知らぬ帝国兵の生命を喰らってでも、わたしはあの男を止めなければならないのだ。走れ、ソフィア・フリクセル!走れ!
◆◆◆
そうして生命を燃やして駆けたわたしは、奇跡的に「わたし」に追いついた。腕を砕きながら投げた剣は「わたし」の鎌を弾き飛ばし、脚を砕きながら繰り出した体当たりに「わたし」は僅かに驚いたような顔を見せた。だが、そこまでだった。精魂尽き果てたわたしは、もはや「わたし」の足元に転がることしか出来なかった。
仲間達は困惑した表情を浮かべつつ、それでも状況を察して臨戦態勢に入っていた。アサヒの顔を持つアモン…アシエン・ファダニエルが何か喋っているが、よく聞こえない。わたしはさらに視線を動かす。そこには邪悪な笑みを讃えた「わたし」がいた。
「わたし」はゆっくりと跪き、口を開く。もはや焦点の定まらないわたしの目には、「わたし」ではなくゼノスの姿が見えていた。
「今度こそ、殺したいほど、俺を憎めよ」
この男の、あまりにもシンプルで邪悪そのものの行動原理。そんなもののために、わたし達は。
「憎む…?思い上がるのも…大概に…しろ…」
わたしの声がわたしではない声帯を通して発せられる。
「仲間達は…お前に気付いていたんだ…」
一言話すたびに命が削れていくのを感じる。
「たとえ…わたしが間に合わなくたって…お前なんかに切り裂かれたり…しなかった…」
暁の仲間達はまだファダニエルと睨み合っている。助けに入る隙を伺っているようだった。
「お前達の…くだらない悪戯に…憎悪なんてしてやる…もんか…」
呼吸がうまく出来ない。目も耳も、何もかもが機能を失っていく。あぁ、わたし、死ぬんだ。ちゃんと戻れるかな。それでも、言ってやる。
「お前に抱く感情は…憐れみ…だけだッ…」
そして全てが暗転した。
ゼノスの顔は最後まで変わらなかった。
◆◆◆
「……いいや、違う。今のお前と戦ったところで、俺の望む全ては手に入らない」
月面、嘆きの海。失われたゾディアークのエーテル残滓がいくつもの光の筋となって宙に流れている。先程の激闘が嘘のように静まり返った静謐な荒野で、わたしはゼノスと向き合っていた。
「また探さねば…。かつて神龍でそうしたように、お前が闘志を注ぐものを。」
わたしが彼を「見ていないこと」を、彼も感じているようだった。そう、今となっては彼と戦う必要もなくなってしまった。
「古き神などというものも、期待外れだった。必要なのは、さらなる悪…さらなる絶望か…?」
彼のことが憎くないわけではない。わたしの身体や帝国兵の魂を弄んだことは言うに及ばず、その数々の所業に落とし前をつけさせてやりたいとも思う。しかし、もはや事態は彼と関係のないところで進行している。斬ったところで何も事態は進展しない。そして戦うことが望みだというのなら—
「…あなたの悦ぶ戦いなんて、お断りです」
—わたしだけが与えられる、彼にとって最大の罰だ。ゼノスは言葉を噛み締めるように俯き、長い沈黙の後「そうか」とだけ呟いた。
ゼノスはわたしの横を通り過ぎ、何処かへ去っていった。すれ違うまで向けられていた縋るような目線に、わたしは何も応えなかった。わたしは、あなたが大嫌いだ。今度こそ、伝わったはずだ。
やがて彼は転移魔法で姿を消した。わたしは傍に佇む月の監視者と共に、追いかけてきた仲間のもとへ戻った。わたしたちの星はまだ、青く輝いていた。
◆◆◆
「いや…待って?身体を?奪われたって?!」
テオドアが信じられないという顔で立ち上がる。椅子が倒れ、リビングに大きな音が響いた。
「えぇはい…。まぁ…そういう事ですね…」
流石にもう少しぼやかした話にすればよかったかと、ソフィアは後悔した。テオドアはワナワナと天井を仰ぎ、船乗りのまじないのサインを切った。やれやれまたかと、同席しているイズミはため息をついた。冒険の話でソフィアが危機に陥るたびに彼はこうして暴れるので、話は一向に進まないのである。
「なんてヤローだ!かわいいソフィちゃんの身体をよォ!畜生!ブッ飛ばしてやる!」
「いや、もうブッ倒してきたって、最初に説明したじゃない」
「そうです!いっぱいブン殴ってやりました!」
「けどよォ!そんなやつ何発殴っても足りねぇって!!!」
「落ち着きなって。ほらシュネーバルよ」
「あっ姉ちゃんのお菓子!うめ〜」
「…それにしても、本当に無事で良かったですね」
数々の修羅場を潜ってきたイズミにして、そうとしか言えない話だった。そしてこれでもまだ冒険の序章なのだというから恐れ入る。
「そうですね…自分で語ってて嘘みたいです」
「フガフガ。で!そっから!そっからどうなったんだよソフィちゃん!」
「えぇとですね…というか結構辛い話も多いんですけど、聞きたいですか?」
「いいよ!最後はハッピーエンドだって、わかってッからさ!」
テオドアは満面の笑顔でサムズアップしてソフィアに応えた。イズミも穏やかな笑顔で話の続きを待っている。
あぁ、わたし、帰ってきたんだな。ソフィアの胸に暖かな気持ちが宿る。それは形のない掛け替えのないものの一つだった。
「それでは続きなんですが、そこからわたし達はしばらく月に滞在してですね…」
【了】
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