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「それでもそこに価値はあるんか」4年・中村 風人


成城戦前のフラグを見事に自分で回収して一番早く引退した同期(その瞬間から三谷はじめ同期は笑い倒してます。ダーツ楽しかったね)、1年間幹部を一緒に務めた池田から紹介もらいました、副主将の中村 風人です。
 
引退後、週6の部活とはまた違った忙しさの毎日に慣れない日々ですが、もう既に部活が懐かしく、恋しく、そしてとても羨ましく思います。
部員ブログを書くのも最後という事で、4年間を振り返り、後輩達に伝えたい事まで書けたら、と思います。
 
拙く長い文章になりますが、最後なのでぜひお付き合いいただければ嬉しいです。
 
では、早速スタート!!!
 
 


1年目

「先輩達すごいなあ、かっこいいなあ。」
 
サッカー部に入って1年目、素直に心の底からそう思っていた。
 
 
 
上智大学の合格が決まり、高校サッカー部のTリーグ最終節を終えて引退した12月中旬、高校/大学の先輩、海弥に今はなきテングでサッカー部の話を聞いて、当然呼吸するようにすんなりと入部した。本当にありがとう。
 
年が明けた1月、初めて練習参加に行った雨のラントラでOBの小熊兄にペアを組んでいただいた事、暇すぎてまだ入学前3月の秦野合宿に参加させてもらった事、入部当初はまだ自分以外先輩だった事もあり、とても鮮明に覚えている。
 
サッカーの戦術や選手選考、運営まで全てを学生主体で行うこの組織が、自分には新鮮で刺激的で1年生ながら自分達でチームを作る感じがとても面白いと思った。
自分達でプレーを止めながら、議論してメニューもそれに合わせて考え話している先輩達を見て、純粋にすごいなあと感じていた。
 
だから自分ももっとこのチームを知りたくて、早く一員になりたくて、1年の夏に懇願して特例でGM課に入れてもらった。

自分は戦術的感覚が皆無だったから、上手くなりたくて、サッカーの中枢を担うGM課に入れば、サッカー観も養われると思った。実際それは正解だと思っていて、高校まで強豪校のように戦術を刷り込まれていない、無知な入部当初と比べた現在の自分のサッカーの感覚は、だいぶ成長できたと思う。サッカーを観る事も好きになれたのは、間違いなくGM課のおかげだ。
 
選手としては、1年間カテゴリーがBだったので試合に絡める事はなかったが、1部で怒涛の連勝5位フィニッシュの一体感や先輩達のかっこよさは今でも目に焼き付いている。
 
サッカーもGMも全力でできて、チームも結果を残して一体感があって、ただ本当に楽しかった1年間だった。
 
 
 
 

2年目

選手としても、選手以外としても貴重な経験をさせてもらえ、大きく成長できた1年だった。
 
 
 
選手としては多くの時期をAで過ごし、俗にいう「メンバー外のA2」常連だった。

一方、学生スタッフがおらず、GM課の自分が毎週リーグ戦にはベンチ入りした。
 

毎週リーグ戦前日の練習試合でメンバー入りの競争に敗れ、でもどこかでそれが日常化して割り切ってしまっていた。
 

土曜日は選手として絶対試合に勝つ、負けたくないという思いで戦い、
日曜日はスタッフとして事前にリーグ戦の偵察をまとめて、交代プランと伝える要点を考えて試合前に幹部とMTGして試合に臨み、負け続ける。


選手として都リーグに出られない悔しさや、毎週結果が出ないことに浸かっている時間などはなく、目の前のまた来たる週末の選手として、スタッフとしての準備の両立に2年次の自分は必死で一杯一杯だった。
 

毎日の練習はレベルの高い周りについていくのに必死だったが、間違いなく確実に選手として成長は感じていた。
戦術理解度も増して身体も少し厚くなり、プレー中もやれる事、勝てる事、見える景色が1年次よりだいぶ変わってサッカーは楽しかったけど、選手とスタッフを行き来する毎日は、常に少し複雑な感情を持っていた。
 

でも、スタッフ枠は4年生でもよかったはずなのに、自分にこの経験をさせてくれたのはとても大きかった。

レベルの高い試合を間近で見てサッカー観も養えたし、人との接し方や伝え方など、サッカー意外にも通ずる学びを吸収できた。選手ではなくスタッフという立場ではあったが、リーグ戦を1年間通して間近で関わり、肌で感じた経験できたことは、非常にありがたかった。
 
本当に2年生ではできないような経験をたくさんさせてもらった。泰志くん大智くんには、感謝しかない。
 
 
 
 

3年目

選手としての転機でもあり、自分がどう在りたいかを固められた1年だった。
 
 
 
コロナ禍に直面し、自分を振り返る良いきっかけにもなった。
1年次の1部で躍動する先輩達のように、2年次に間近で感じたあの緊張感の中で自分もプレーでチームに貢献したい、と強く思うようになった。
どんな選手だったら監督側はメンバーに入れたいか、これまでの経験も糧に考えた。
 

結論は、ユーティリティな選手になる事だった。

本職をCBだけでなくSBまでDFラインを高いレベルで網羅すること。
SBを研究してたくさん試合を見てイメージをつけたり、明らかに増える運動量に耐えるため自粛期間中も毎日走った。ナイキランは100kmを超えた。午前走って午後に友達とボールを蹴りに行く毎日。

皆で集まっての練習もなく、孤独なトレーニングでもあったが、逆にチャンスだと思った。周りとの差を埋めてきたる再開に向けて万全のスタートダッシュを切るために。
 
 
 
結果、都リーグでは全試合メンバー入りできて、5試合出場。何試合か90分フル出場できた試合もあった。
 

 
もちろん全然満足していい結果じゃない。
それでも、自分にとってはでかすぎる一歩だった。

上智大学体育会サッカー部に入って本当に1番嬉しくて、楽しかった。何にも変え難いやりがいと充実感を感じていた。
 
 
死ぬほど頭の中でシュミレーションして、最善の準備をして闘争心とアドレナリンドバドバで試合に入ること。チームを代表して部員の想いを背負って闘うこと。絶対に負けられないこと。自分が思っていた以上に通用する部分もあったこと。
緊張感までもをひしひしと感じながら、喜びを噛み締めていた。
 

サッカー選手として、原点にして頂点であるこの感覚を、何にも変え難いピッチ上で幾度となく感情を揺さぶられるこの感覚を、思い出させてくれた。
 
 
「ああそうだ、俺このためにサッカーしてるんだ」
 
 
心の底から感じられた。
 

コロナ禍の中短かったシーズンだが、部員も動員された有観客の都リーグ最終節 vs武蔵大学を終えた瞬間、
 
 
「来年のラストシーズン、必ず絶対に試合に出て選手として昇格に貢献しよう」
 
 
這いつくばってでも、死んでも試合に出てやる。自分の居場所をそこにしよう。
そのためにできることは何でも最大限しよう、と心に決めて決意した。

 
選手として、また4年目を前にしてこう決意できたのも、間違いなく隆次くん幸之助くん押田くんが出場の機会をくれたからだ。代替わりを目前にして、運営面でも大変お世話になった。頭が上がりません、本当にありがとうございました。
 
 
 

4年目

サッカーを、上智大学体育会サッカー部をいろんな角度から経験してきたからこそ、また原点に立ち返って選手としての強いこだわりと決意が芽生えた。

そして迎えた学生サッカーラストシーズン。
 
 
 
正直に本音を言うならば、本当に辛くて、しんどくて、苦しすぎるシーズンだった。
 
 
 
思い描いていた理想の今季と真逆のシーズンを歩むことになる。
 
 
 
長期的に部を考えた上で、南出を学生監督に置く新たな体制のもと、ついに自分達の代が始動。
オフシーズン含め、決意を実現するための万全の準備をしてきたつもりだった。新たな戦術に順応しながらも、日々の競争を常に意識した緊張感のある毎回の練習だったと自分は感じていた。

何とかA1のレベルについていきながらも、アミノバイタルカップ vs國學院大学に出場。負けはしたものの、「やれる、自分達のサッカーは間違ってない。貫けばいい。」と思える手応えと収穫のある試合だった。
 
 
その後も都リーグ開幕まで、何とか必死にA1に食らいつき、わからないことはとにかく南出と話した。選手は南出の体現者だ。課題をクリアにして、また一つ仲間と連携が深まって、できるようになることが増えて。大変だけど、最高に充実していた。楽しかった。
 
 
そして何とか、当初の短期目標としていた5/2都リーグ開幕戦のvs桜美林大学戦にスタメン出場が決まった。
 
4年間喉から手が出るほど、必死に追い求めてきて掴みたかったものだった。
 

しかし前日にコロナの関係で延期が決まり、開幕戦は翌週のvs創価大学戦に持ち越し。
また1週間勝つための良い準備をして、競争を勝ち抜けばいい、そう切り替えていた。
 
 
 
 
そして、忘れもしない5/6。
 
 
 
朝起きたら、突然膝がズーンと重たい鉛のようだった。

自分が一番驚きだった。膝が曲がらずボテっと大きく腫れ上がって感覚神経が鈍くなっていた。その日の練習は意地でもやろうと試みたものの、気持ちの問題をはるかに超えた症状に、サッカーなど不可能だった。
週末に間に合わせなきゃ、と焦りながらもすぐに病院に向かった。何の前兆もなく、突如そいつはやって来た。
 
 
 
診断は、左膝外側半月板複数断裂損傷。
 
 
 
以前のように、膝の違和感なくスッキリした状態で全力のプレーをするなら、オペしかない。とのことだった。

しかし手術の場合、術後からリハビリを含めた完全な競技復帰はほとんどの場合半年かかる。それではシーズン中に間に合わないので、残された選択肢は保存治療への期待をかけるのみだった。
膝の怪我は、同じ怪我でも人により感じ方や治癒期間も大きく変わる。だから、一概に保存治療で痛みと付き合いながらのプレーはできなくはない可能性がある、とのドクターの見解だった。
 
 
 
突然サッカーを取り上げられ、これまで積み重ねてきてやっとの思いでようやく手にしかけたものが、いとも簡単にあっけなく指の間からすり抜けてしまった。
これまでも幾度となくサッカーでしんどい経験はしてきたものの、ここまでの大怪我の長期離脱でサッカー自体ができなくなってしまった事はなかった。
 

 
それでも、下を向いている暇はない。
すぐに気持ちを切り替えて、開幕した都リーグのチームサポートと膝の治療の日々が続いた。
 
 
 
3ヶ月弱のリハビリプロトコルを前田さんに組んでもらい、半月板の怪我の保存療法で可能な最大の処置である膝注射を、週に1回、半月板と膝の関節内に2本打って病院に通う生活が始まった。
 
 
 
 
注射の効力は絶大なもので、痛みが軽減されて、50%くらいのパフォーマンスなら動けるようになった。前田さんはスプレッドシートにしてリハビリメニューを復帰までの段階ごとに作って、面倒を見てくれた。そのおかげで、何とか以前の100%の状態までは無理でも、7割くらいには戻ってきた感覚ができ、復帰できた。
 
 
その週の練習に復帰して、中断期間前、前期最終節 vs東工大戦にスタメン出場し、復帰から1週間でも75分まで戦うことができた。完全復帰、怪我以前にはほど遠いけれど2ヶ月前からしたら確かな成長であり、この調子でいけば保存療法でも100%に持っていけると自信になった。
 
 
 
リーグ戦中断期間とオフ期間を挟んで後期に向けて始動したのも束の間。
膝の調子はそれ以上回復せずに良くならず、尽くせる治療法も注射以上はなく、手詰まりの状況だった。日々の練習の強度に耐えるのが厳しくなっていくのを感じていた。
 
 

そして、8月下旬の練習中に、感じたことのない痛みと半月板が外に押し出される変な感覚と音がした。
 

 
診断の結果、亀裂だった損傷部位が断裂に及び、新たに損傷箇所ができ、結論悪化しているとのことだった。何人か病院の先生を回ったが、この状態でやるのはお勧めしない、と診断は一緒だった。
 
 
 
 
正直、もう体も心も限界だった。
 
 
 
以前なら当たり前に頑張って伸ばしていた足が、伸びない。出てこない。守備のプレスが止まれなくなった。守備強度が弱くなった。ロングキックの深い踏み込みができなくなった。片足ジャンプができなくなった。

もはや気持ちの問題とかではなく、物理的にできなくなってた。
 
 
 
そんな選手として死んだ自分を、怪我前も上手くないしただ全力の選手だったけど、その「全力」のレベルが下がってしまった自分を、皆は優しいから言ってこないけどそう感じられているだけで、情けなくて情けなくて、本当に辛かった。
 
 

上手くない選手が、人より頑張れなくて、「全力」の基準が下がってしまったら選手としての価値など無い。
 
 
 
流石に心が折れかけて、前田さんとも何度も話をした。
リハビリもできる最大限のことはしている。テーピングも毎日マネが巻いてくれる。鎮痛剤も毎日部活の前に飲み続けている。今できる全てを出してプレーしてた。
 
でも、そのレベルが自分の期待値より遥かに低い。
ただそれだけのことだが、その事実を受け入れられなかった。
 

 
4年生ラストシーズンももう半分以上すぎ、残り2,3ヶ月しかない。チームを支えて引っ張るべき幹部なのに。4年でもう最後なのに。あんなに固く決意して、手にしかけた目標とともに、さあここから!って時に。
 
 
 
 
怪我をしてから、引退するまでは何があっても部活中は聞かれても弱音を吐かない、と心に決めていた。
 
 
弱い副主将なんて誰も求めていない。強くてチームを支えて引っ張る幹部であるべきだと。そう思っていたから。
 
 
 
だからこそ1人になった時に、感情が溢れ出すことなんてしょっちゅうあった。
帰りの電車の中で、夜ベッドで寝る時に、当然DL欄にある自分の名前を見るたびに、試合の写真が送られてくるたびに。
 
 
 
色んな感情があった。
 
以前の自分や描いてた理想の自分と現実の怪我を比べてどうしようもなくなったり、迷惑をかけてしまっている人達に謝りたかったり、支えてくれている人達がいるのに全力でできない申し訳なさだったり、先が真っ暗で何も見えない不安だったり、もう全力でサッカーできないのかもしれないという怖さ悲しみだったり。
 
 
 
自分の状況とは裏腹に、チームは毎試合勝っていく。
幹部だし、このチームが大好きだし、選手としてプレーできない分、他の側面からチームを支えている自負はあった。
 
でも、正直ピッチに立って戦って、勝利を求めるあの感情に勝るものではなかった。3年の時と比べてしまい、嬉しいけど素直に全力で喜べきれない自分がいたのも確かだ。
 
本来のあるべき姿なら、チームを支える幹部なら、上手く無い選手なんだから、
自分に見切りをつけて、自分よりチームを優先して学生コーチとしてカテゴリーを見たり、ピッチ外にもっとベクトルの比重を置いて、違う形でチームに貢献すべきなのかもしれない。
 
 
 
でも、その類は4年になるまでにやってきた。
おこがましいかもしれないが多少なりともその自負はあった。
 
 
 
組織に対して、学生主体だからこそ、当事者意識の持ち方次第でいくらでもチームに貢献できる側面がある。
 
 
 
そんなこと、2年前からわかってる。
わかってるからこそやってきた。
 
 
 
 
でも、だからこそ、上手く無いってわかってるし全力のパフォーマンスで何とか試合に出れるかも、くらいの立場だった自分だからこそ、

 
最後の最後原点に拘りたかった。


至ってシンプル。ずっとサッカーが大好きで、サッカーをしたくてこのチームに入部した。
そして、あの試合の興奮、突き動かされたり爆発する感情、ピッチ内独特の緊張感、紆余曲折のある試合のストーリー、これがたまらなくて、サッカーに没頭してきたんだ。
 
 
 
結局、「諦める勇気」がなかったんだと思う。
 
 
 
チームじゃなくて、自分をとった。とも言えるかもしれない。
 
でも、この決断が自分のためであり、自分が後悔しないためであり、関わって支えてくれた誰かの、話を聞いた誰かの、同じように怪我を抱えて先が見えず悩んでいる誰かの、強豪校出身でないのに大学サッカーで試合に出ようと熱い思いを持っている誰かの、

そんな誰かのためになるのかもしれないとも思った。
 
 
そうすれば、それは自分のためであり、チームのためにもなり、誰かのためにもなるんじゃないかと。誰かの心を動かせるんじゃ無いかと。

だから、自分はこの決断を自分で正解にしていく決意を新たにして、打開策を模索した。
 
 
 
 
病院の先生、前田さんと相談した結果、先生は病院の摂取目安上、すぐに首を縦に振ってくれなかったが、
最終的には注射の頻度を週2回に増やしてもらった。
 
考慮できる最大限の頻度で先生には融通を効かせてもらった。
もちろん、痛みは軽減されるが膝を使うので当然悪化はするし、注射痕から菌が入って感染症になるリスクも高まるので風呂には入れずシャワーしか入れない、
など代償はあるものの、現状で可能な全力を出し切れるよう、リハビリも重ねて復帰した。
 
 
 
怪我してからというもの、膝へのケアを含めてかける時間は相当大変なものだった。
怪我以前からストレッチは念入りにやっていたものの、膝と膝周りをほぐすマッサージから、ストレッチ、膝周りの筋肉をチューブで刺激を入れて固くならないようにして、テーピングを巻いて鎮痛剤を飲む。部活後は膝に水が溜まって左右差が見てわかるほどボテっと腫れ上がり、アイシングと圧迫は欠かせない。
 
 
普段も週2回真田堀の練習を途中で抜けて病院に通い、注射を打つ。毎回毎回膝に針が刺さって、中に液体が投入されて染み渡る死ぬほど痛い激痛があって。

人の何倍も時間をかけて、ようやく何とか怪我をしている中での全力を出せてサッカーができる、そんな状況だった。
 
 
 
それでも、注射が20回を超えたあたりから膝が注射の効力になれ始め、痛覚の麻痺が鈍ってきて以前より効かなくなってくる。
何度も書いているように、以前のような強度の全力プレーはできないし、そりゃあ都リーグのメンバー入りも夢のまた夢。
 
 
選手として退化していく自分に打ちひしがれることなんて怪我してこれまで1年間ずっとそうだった。
 
 

それでも、南出はずっと1年間Aチームに残してくれた。
 
前田さんは、これ以上治療がないのに懲りずに話を聞いてくれて、できる事を毎回最大限してくれた。
 
マネが、毎日たくさんアイシングを用意して巻いてくれて、自分が少しでも動きやすいように要望を聞きながら毎回丁寧にシワひとつなくテーピングを巻いてくれた。
 
 
今自分ができる最大限のことも、以前より衰えた今自分ができる限界の全力も、全て自分ではわかっていた。


それでもサッカーができる限り、目の前にTOPチームのチャンスがある限り、常に今出せる全力を毎日出し続けて来たるチャンスを待つしかない。
 
諦めでもなく、冷静でもなく、不思議な感情だが、残り少ない時間を後悔せずにどう過ごすか考えて貫こうと思った。
 
 
 
そして、また壁は訪れる。
10/30 残り2節となった公式戦に向けて、今日も本気でスタメンを勝ち取りに練習試合に出場した。
 
 
 
相手選手との接触時に腕がありえない方向に曲がったまま肘から地面に落ちた。

鈍くて大きな骨の音がたしかに鳴って、左上半身に激痛が走った。
 
 
 
診断は左肘後方完全脱臼。
競技復帰までの全治は1ヶ月半。
 
 
 
都リーグ最終節まで残り10日の出来事だった。
 
 
 
完全に外れた肘の骨を戻すのは拷問で、麻酔と点滴により眠らされて正常な位置に骨は戻ったものの、サッカーはおろか、腕関節周辺の神経や靭帯も傷ついており、指先と腕に力は入らなかった。日常生活は愚か、1人で着替えるのも無理だった。
 
 
 
あー、また来たこの感情。
周りから見ても今度こそ、もう完全に引退だと思われた。先生にも、流石に厳しいから諦めるよう言われた。
 
 
 
それでも自分は、1日だけ休みをもらってすぐに気持ちを切り替えた。諦めがついたのでも、サポートに徹して引退しようと決めたのでもない、
 
 
 
「必ずピッチに立つ」と。
 
 
 
また、諦める勇気が出なかった。
 
 
 
これでは何も残らない。
自分にも、支えて協力してくれたたくさんの人たちにも。
 
 
悲劇のヒーローになるつもりなんてさらさらなかった。自分の決断した道を正解にしないといけない。
 
 
一時も忘れなかったサッカーの原点にして頂点、あの感情を。自分のためであり、それが周りのお世話になった人や誰かに響く、チームのためになると信じて。
 

 
常に自分が自分に一番期待していなくてはいけないし、自分が諦めていいはずがなかった。
 
 
 
走るたびに振動で腕に痛みが響くし、激しく接触されたら、もし転倒したら確実にまた外れるか今度は折れる。
 大袈裟ではなく、完全脱臼から10日後程度なら間違いなくそうなる。

でもそんなことどうでもよくて、大事なことが、諦めちゃいけない理由が自分にはたくさんあった。

前田さんに、「そもそも脱臼でスポーツしないから、脱臼用のテーピングなんてないよ笑」と笑われながらも、ガッチガチにテーピングを巻いてもらった。
 
 
 
 
そして11/10都リーグ最終節 vs東工大。
南出はメンバーに入れてくれて、最後ピッチに立たせてくれた。
 
 
南出は、「今年1番苦しい思いをして来たのに、もっと出せずにごめんなさい。」と泣きながら話してくれた。
 
 
そんなことないよ。
むしろ本当だったら怪我してからの自分は、皆の7~8割くらいの自分なりの今出せる「全力」で戦っていた。
それでも南出はAにずっと置いてくれた。むしろ感謝しかない。
先輩の自分のことで後輩にこんなに謝らせるほど気を遣わせてたなんて、最後まで情けないなあと思う。
 
 
 
試合のことなんてほぼ覚えてない。
でも久しぶりのあの何とも言えない緊張感とこの胸の高鳴りとピッチ内の雰囲気が、勝利の瞬間が。

これだった、ずっとまた幾度となく、たまらなく味わいたかったやつ。
 
 
 
 
サッカーがやれて、諦める勇気がなくて、頑張ってきて本当に良かったと心の底から思えた。
そして、やっぱりサッカーが大好きで辞められないと再確認した。
 
 
 
 
終わってみれば、この長いシーズンの中で練習に参加し、試合に出て「選手」として活動できたのは、


わずか54日だった。
 
 
 

口が裂けても、決して満足感のいく思い残す事のない最高のラストシーズンだった。だなんて、嘘でも言えなかった。

どんな言葉の表現が正しく当てはまるのかわからないけど、今年に思い残す事なんて腐るほどたくさんあった。チャレンジのステージにも立てない日々だったから。
 

それでも、最後にまたサッカーができた事だけは良かったに違いなかった。

 
そして1番強く感じた想いは、ありきたりだけど「感謝」だった。
 
 
本当に、本当に多くお人に支えられて駆け抜けられた4年目だった。
再断裂した時も、脱臼した時も、自分の強度の限界を感じてどん底の時も、1人で涙を流さずにはいられなかった。でも、最後のスピーチ。この感謝の思いにも気持ちが溢れてしまった。
 
 
 

本当に最後の場だから、全員感謝を伝えたい。
 
 
 
 
まず、幹部。この1年苦楽を共にした。始めはぶつかることも多くて、でもだんだんお互いの理解も増して、組織運営も手探りながら進むしかなかったけど、2人から学ぶ事も多くて、常にチームをよくしようと3人で試行錯誤していた日々がかけがえなく貴重だったな、と終わって改めて思う。そして、自分の分も怪我のことも理解して支えてくれたことが、1番のありがとう。
 
同期。1人だとしんどくて仕方ない時でも、皆といるだけで、しょうもない会話が心の休み所だった。そして、それぞれ4年ラストの想いが乗ったプレーは、最後また自分もピッチに立ちたいと思える背中を後押ししてくれるものでした。4年間ありがとう。
 
先輩達には、現役も引退してからも本当にお世話になっている。上記にも書かせてもらったが、この部でたくさんの貴重な経験をさせてもらった。それら全てが自分の糧になって4年目を送ることができた。自分は先輩っ子なので、社会人になっても、渋いと言われながらもいつもたくさん飲みに行って可愛がってくれたり、相談した時にはばか丁寧にアドバイスをくれる、そんな心から尊敬できてかっこよくて面白い先輩達をこれからも頼らせて下さい。
 
後輩達は、本当に可愛くて可愛くて仕方なかった。先輩達が自分にしてくれたように、自分も後輩達と良い関係を築ける先輩になりたい、というのは1つの目標だった。本当は、プレーでも背中でも言葉でも魅せられる先輩になりたかった。選手としてそれはできなかったと思うけど、後輩が「風くん、風兄」って話しかけてくれて、一緒にサッカーできるのを待ってくれる奴もいて、たくさん相談してくれる奴もいて、飲みやご飯にも沢山行って、本当に良い後輩達に出会えて幸せだと心の底から思う。
 
前田さんには、一番面倒をかけてしまった。初めての大怪我で、ラストシーズンで、思うように治らず体も動かずメンヘラのように毎日LINEをして、少し感情が溢れてしまう事もあった。前田さんは最善の処置をしてくださっているのに、きっと本当にもうこれ以上できる事ないんだろうなと思いながらも、良き理解者としてずっと話を聞いて、自分のために懸命に動いてくださった。病院に付き添ったり一緒にいる時間が長かったからこそ、いろんな話をして前田さんの人柄からも学ぶことが死ぬほどあった。こんななトレーナーにお世話になるサッカー人生とは思わなかったけど、間違いなく前田さんがいなければ今シーズンを送れていなかった。本当にお世話になりすぎました。
 
マネージャー・スタッフは、自分のガチガチ固めるにテーピングのせいでエネルギー使って疲れるとよく言われてた。それでも、よく話して自分の動きやすいようにシワひとつなく丁寧に毎日巻いてくれた。学生トレーナーの田崎も、前田さんがいない時にはリハビリやマッサージを手伝ってくれた。マネージャー・スタッフの皆には、話しているだけで自然と選手を明るく元気づけさせる力があると思う。自分も何度もそれに救われた。本当にありがとう。
 
桃井先生・古賀先生には、膝も肘も今でも大変お世話になっている。注射含め、毎回診察では自分の想いを尊重してくれて、初めての大怪我に不安な自分にも、嫌な顔ひとつせず丁寧に説明や質問に答えて下さった。部活を考慮して急な予約や時間帯にも無理言って、融通利かせていただいたり、本当に感謝しかない。
 
岡田優希さん、そして池谷友喜さん・米原さん・浦上さんをはじめとするクリアソンの方々にも日頃からお世話になった。恐れ多いが、大人のサッカーと真剣に向き合っている最前線の方々から学ぶことは本当に多かった。普段関われないような方々と日頃LINEやzoomで意見交換をして刺激を得られることは、貴重すぎる経験だった。岡田さんからは早稲田ア式のイズムやサッカー人としてのマインドについて。特に早稲田ア式のお話をたくさん聞けたのは、自分が運営になり幹部として意識する上でも非常に参考にさせていただいた。池谷さんをはじめとするクリアソンには、怪我だったり辛い時の良き兄貴分として、同じ目線に立って自分のまだ知らない自分にも出逢わせていただきました。舞台は違えど、地域CLはサッカーの醍醐味、人の繋がりというクリアソンらしい温かさを感じて、恐れ多いがとても勇気づけられた。
 
 
 
そして最後に友達。地元、高校、大学、バイト、インターン先。たくさんの仲間思いの仲良い友達を持って本当に幸せでした。日頃からサッカーを応援して尊敬してくれて、試合に見に来てくれたり、来れなくても熱い連絡をくれたり、お疲れ様とご飯連れてってくれたり。本当に周りに恵まれて、たくさんの友情を感じる事ができて幸せ者だと思う。
 
 
 
 
 
余談にはなるが、正式に引退した今、
 
諦めの悪い自分は、また3年の時みたいに、それ以上に全力でパワーアップしてサッカーができるように手術することを決断した。
 
 
 
もちろん、日常生活やわいわい皆でフットサルをする程度ならこのままでもいい。


でも、また全力でサッカーがしたい。

この想いはこの1年で消えるどころか大きく燃え盛ってしまった。
こう思える今の自分があるのも、上智大学体育会サッカー部のおかげであり、
怪我をしている中、皆が夢中に必死にサッカーを頑張っている姿が輝いてカッコよく見えたからに他ならない。
 
 
 
引退後の診断の結果、膝の状況は悪化しており、断裂損傷の劣化も進行していた。リハビリ含め競技復帰は8~10ヶ月かかると言われている。
 
 
 
それでもまた、全力でサッカーができる日を夢見ると今から本当に楽しみで仕方ない。

必ず自分は前よりパワーアップして、また次のステージで全力でサッカーができピッチに立っているはずだ。諦める勇気がないから。
 
 
 
 

後輩たちに伝えたいこと

本当に長くなってしまったけど、もう少しだけ、後輩達に想いを書かせて下さい。
 
 
 
1番伝えたいことは、至ってシンプルで当たり前のこと。
 
 
「等身大のまま、ひたむきに自分と・サッカーと・組織と向き合い、狂うほど没頭し頑張ること」
 
 
たったこれだけ。難しいことはない。真摯に向き合って熱く一生懸命頑張っている姿は、とても魅力的で尊い。自然と人を惹きつけ、巻き込む力があると思う。
 
 
それぞれが直向きに努力を続け、もし
強豪校出身でない選手が試合に出たら、怪我に苦しんだ選手が復帰したら、スランプから抜け出した選手が点を取ったら、普段はクールなやつがヘディングし、スライディングして熱く戦っていたら、
 
 
そのひとつ一つのパーソナリティが、
それが同じような境遇の誰かの、身近な隣の誰かの、支えて携わってくれた誰かの
感情を揺さぶり、勇気や感動や刺激を、影響を与えるかもしれない。
それはその人自身にしかない立派な付加価値だ。
 
 
 
でも池田も言うように、この当たり前の基準を上げること、そして継続することが何より難しい。
 
 
 
4年間なんてあっという間だった。
4年目なんて特にそう。ありきたりだけど、だからこそ1日1日を無駄にしないで。いつ怪我するかだってわからないし。
 
誰かも言ってたけど、皆は頭が良いから現実と理想を逆算して、自分が傷つかないある程度居心地の良い場所に落ち着いている人も多いと思う。

でもサッカーが好きでこの部活に入ったわけだから、とことん上を目指してほしい、と思う。
試合に出れたことも、下のカテゴリで燻っていたことも、サッカーができなかった事も経験している自分だからこそ、そう強く願う。
 
 
そして自分は、そんな皆に比べたら頭も悪いし馬鹿だけど、ある意味よかったなと思う。
 
 
理想を追い求めて、自分に自分が一番期待して、諦めきれずに無理をした。
 
 
馬鹿だから、諦めずに済んだ。カッコ悪くても仲間にいじられても、馬鹿だからピッチに立つことを諦めきれなかったし、そして今もまだ、また全力でサッカーができると諦めずに理想を描いて信じてる。
 
 
だから、皆には馬鹿になれなんて言えないけど、
後先考えずに目の前に全力で向き合って自分の可能性を1番自分が信じてあげて頑張って欲しいと思う。
そう言う人の姿って絶対に誰かが見てるし、かっこいいし輝いて見える。
 
 
 
非情ではあるけれど、体育会である以上試合に出なければ選手としての価値はないし、誰しもが1度は憧れると思うからこそ、自己成長に没頭し本気で死に物狂いでそこを目指して欲しい。
そして、そう言った人たちを馬鹿にしたり、知らんぷりをするのではなく、支えて一緒に応援できる後押しする集団であってほしい。
 
 
 
幸い、今のこの組織にはスタッフとマネージャーがいる。サッカーに、自己成長に没頭できる環境は、彼ら彼女らのおかげで年々整っていると思う。
 

だからこそ、同時にその人達への感謝も忘れないでほしいし、感謝は「ありがとう」とどんな場面でも声に出して伝えるべきだ。
選手のみんなの頑張りが誰かに響くように、スタッフの頑張りも選手に響くように。お互い持ちつ持たれつだと思う。それは、藤田さんや前田さん、吉見さんの大人の方々も然りだ。
 
そして上智大学体育会サッカー部のスタッフには、南出には、田崎には、小熊には、杉村には、マネージャーには、
例えサッカーができなくて長期の怪我で落ち込んでも、部活に来るのがしんどくても、最近うまく行ってなくても、スタッフと接すればいつの間にか元気とパワーをもらえる、和やかになれる、うちのスタッフは皆そんな人柄を持った人達だと思う。
これからも、ピッチには立たない「選手」として、選手と同じ気持ちで一緒に戦い、共に勝利を貪欲に目指して欲しいと思う。
 
 
 
 
少しここまで綺麗事に聞こえてしまうかもしれないけど、時には目標が遠すぎてモチベに繋がらなかったり、周りの声を気にして萎縮してしまったり、孤独を感じることもあるはずだ。
 
俺も怪我して、そうだった。
 
 
でも、誰しも皆絶対に1人じゃない。
 
 
自分が頑張ることで無数の価値や感動や揺さぶる感情を他者に、チームに与えることができる。引退という節目だからこそ身をもって感じる事も多くて、俺はそこに気づいた。
 
 
 
 
だからそんな時は、原動力を「自分のために、誰かのために、何かのために」と考えてみて欲しい。
 
 
 
自分のためだけだったら、人は誰しも弱いから負けてしまうことってあると思う。
 
アスリートはよく応援してくれるファンのために、支えてくれる人のために、子ども達のためにってよく言うけど、おこがましいけど原理は一緒だと思ってる。
 
必ず自分を支えてくれてきた人達が、関わって尽力してくれた人達が、応援してくれている人達がいるはず。
それは親だったり、先生だったり、切磋琢磨してきた仲間だったり、スタッフ・マネージャー陣だったり、彼女だったり、友達だったり。
 
 
その人達はファンではないけど、間違いなく自分に関わってくれたサポーターだと思う。
そして想いや費やす時間や行動や言葉で自分を後押しして応援してくれている。

そう考えると、それって決して自分だけのものではないし、「自分のため」だけより頑張る理由が、諦められない理由ができて、心奮い立つんじゃないかなと。
 
 
それは人じゃなくても同じで、
夢やお金や幸せや愛だったり、「何かのため」でも頑張ることができる原動力になると思う。サッカーに限った話だけじゃないけど。
 
 
 
その原動力を胸に、自分の自信を持って選んだ選択を見つけて、本気で自分で正解にしていってほしい。それが後悔しないってことだと思う。
 
 
 
 
最後に、新4年生と幹部へ
 
沢山ぶつかって悩むことも、重圧や責任を背負って1年間戦うと思います。自然体の等身大で、力みすぎず楽しんで頑張って。
 
せっかく良いメンツが揃ってるのだから、誰かが何役も役割や立場を抱えるよりも、仲間を信頼して1人1人が役割を全うして背負い一生懸命頑張る姿を見れば、それだけで絶対に後輩はついてきて一体感のあるチームになると思うし、チームとして最大出力を発揮すると思います。
 
そして、結果が出ても出なくてもプロセスを大事にしてほしい。
今年は結果が出たのでよく見られがちだけど、実際に良い運営ができたかと問われれば、試行錯誤していたけどうまくいってない場面なんて死ぬほど沢山あった。
 
それほど、良くも悪くも結果に左右されがちではあるけど、プロチームではなく学生主体の毎年人が入れ替わる俺らの組織で1番大事なのは、チャレンジを繰り返すそのプロセスだと思う。
 
それが、組織が長期的に成長していく上で間違いなく1番の栄養や財産になる。
 
どんな決断をしても必ず批判はつきもの。
それでもブレずに、自信を持って選択を正解にしていってください。
 
学生主体がゆえに、何も持ってない、何もないは欠陥やデメリットではなく、もはや武器でありポジティブな特徴だと思う。
無は何でもできる、生み出せる、変われる。だからこそそこに上智の価値がある。良いものは自然と下の代にも継承されて残っていくし、今年を含め良くも悪くも上の代を見て、代によって方針や政策も変えられる。そこは都度柔軟性があり、それが素敵な上智大学体育会サッカー部の色だ。
 
 
どちらが良い悪いではなく、自分が所属した4年間でも組織の性質は大きく変化した部分も多いと感じる一方で、変わらず残っているものもある。
自分達が上を見て良いと思ったものは残し、変えたいものは変えられる。これが学生主体の本質であり、この組織が成長する正解のない構図だと思う。
 
 
こうして、変化と進化を続けながら、1年1年その組織に属する部員達の想いを存分に乗せて突っ走っていってほしいと心から思います。
 
 
 
 
ここでの4年間の経験と人は、大切な財産です。これからは大事に胸にしまい、歩んでいきます。
4年間本当にお世話になり、ありがとうございました。
 
 
20-21シーズン 副主将 中村 風人
 



最後を務めるのは、主将として今季上智のゴールに立ち続けた頼れすぎる守護神であり、新木 優子が大好きな羽藤です。
 


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