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『戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に「剥奪」された』とは、何を意味するのか?


先日(8/12)、私のnoteで書いた「在日コリアンは日本の植民地支配の結果、生まれた存在である」という記事の内容に対して下記のコメントがありました。


タイトルが穏やかではないですね。
でも、一応私に対しては「議論」という言葉でボールが投げられていました。

私は、この記事のタイトルである、
「戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪された、とは何を意味するのか?」という事について、この方への回答という形式をとりながらも、これから「初めて知るよ」とか「何となくは分かるけど詳しくは知らない」という方々に向けて、少しでも知ってもらうことを目的として、この文章を書きたいと思います。
(読みにくい箇所や、理解しにくい箇所もあるかもしませんが、とりあえず総論の終わりまでは、なんとか読んで頂けたら幸いです。)
※目次をクリックしたら、その箇所にとびます。


〇投げられた議論の中身と、まずはじめに回答したいこと

初めて知るよという方は、具体的なコメントの内容を見ても分かりにくいと思いますので下記要約だけ読んで一旦飛ばし、総論から全て読んだ後に遡ってお読み頂く方が、もしかしたら良いかもしれません。

私が先日の記事で、〈戦後在日朝鮮人は日本国籍を「剥奪」された〉と書いたことについて、この方は次のように私にコメントされました。

(要約)
▼在日は日本国籍を「剥奪」されたのではない。「喪失」なら異論はない。戦後当事者である在日から反対運動は全く見られなかったのに、ここ数年になり、「日本国籍を剥奪された」という主張が出てきており、そのように言うのは完全に嘘つきだ。

▼主題テーマについて既に理解しているよという方は、下記の投げられた議論の経緯をざっと、読んで頂く方が良いかと思います。
  ↓
冒頭に埋め込んだこの方の1回目のコメントに対して私が返した質問と、再び返信された2回目のコメントを下記のとおり一応掲載します。

1回目コメントへの私からの質問
田山たかしさんへ
コメント読みました。
以下、2点お願いがあります。
① 主張されている事の論点が、わたしが書いた「日本国籍を一方的に剥奪された」という事に関する事だと勿論わかるのですが、下記のどちらがあなたの主張か文章からは判断しきれず(私の読解能力のまずさもありますが)、非常に重要な点なので、もう一度そこを明らかにして、あなたの8/16のnoteの記事の中で「追記」して更新するか新たに書き直すかどちらかしてください。
  ↓ ↓
ア)「日本国籍を一方的に剥奪された」という事自体を否定しており、そうではなかった、そのような形で在日は国籍を喪失したのではない。という事を言いたいのか?
イ)「日本国籍を一方的に剥奪された」こと自体は認めるけれども、あなたが書いたところの後述の、「色々な当時の状況があったから、それは仕方なかった」という主張で そしてその仕方なかった状況を色々言いたいのか?

(ア) と(イ)どちらになりますでしょうか??
一応、(イ)を主張されているように私には読めたのですが、やはり全体として判断しかねまして、どちらを言っているのか?、申し訳ないですが、読むものにもう少し分かりやすく名言してください。

② 2点目は、(ア)(イ)の各々の主張の支える「根拠」を、もう少し科学的に情報を肉付けしてほしいです。書かれている内容が少なかったりその出どころが不明すぎて、議論のボールを受け取ろうにも、投げられたボールの中身が分からず、またボールが形になっておらず、受け取ろうにも受け取れないというのが私の感想です。
出来るだけでいいので、もう少し「科学的」に肉付けして書いてもらえますでしょうか。(以下省略) 2021.8.19


▼田山さんからの2回目コメント
お返事ありがとうございます。
(ア)の意味になります。

「在日の日本国籍が一方的に剥奪された」という近年見られるようになった主張は、「不本意ながら」「日本国籍を失いたくなかったが」という意味合いで使われるケースが殆どです。「在日が日本国籍を失った」という表現なら異論はありませんが、「剥奪された」という表現だと「嘘言うな」と反論せざるを得ません。
それから「科学的に説明せよ」とのことですが、そもそも「剥奪された」と主張されているのは貴方なのですから、「剥奪された」ことを貴方が立証すべきです。

戦後長らく「在日は日本国籍を剥奪された」と言う主張が見られなかったのに、ここ数年急に見られるようになったのはどういうわけでしょうか。先のコメントで指摘したように、終戦直後に「日本国籍を剥奪された」ことについて当事者である在日から反対運動などは全く見られません。当時の状況で「敗戦国民」と言う不利な地位を逃れるというメリットを享受しておきながら、数十年後に「無理矢理国籍を剥奪された」と翻意するのは、全く誠実性が感じられないどころか完全に嘘つきです。   2021.8.20

   ↓ ↓ 

本論に入る前に前置きが長くなりました。

▼まず初めに回答したいこと
投げられた議論に対して、先にまず下記を申し上げておきます。

→私は、戦後の在日朝鮮人が、日本国籍を一方的に剥奪される形であった歴史事実を共有事項として理解した上で、且つその文脈でもって、日本国籍を「喪失」したと表現する・表現されるというならば、何ら、異論はない。
しかし、あなたは、どうも全く異なる歴史事実の文脈で喪失と述べているようなので、その歴史事実について事実誤認、つまり「間違っている」という事をこれからはっきりご指摘申し上げたい。

〇総論:「戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪された」のか?(前半:サ条約まで)


この記事では、まず
総論で:主題に対しての「基本の歴史の説明」を述べ、そして
各論にて:具体的に投げられた問題提起について、2点を争点化して回答したいと思います。(以下、サ条約=サンフランシスコ平和条約)


① 1945年~1952年:GHQ占領下における戦後の在日朝鮮人の処遇について

1945年8月、日本がポツダム宣言を受託したことによって、日本の植民地支配に終止符が打たれる。この時、230万人に達していた在日朝鮮人は次々と朝鮮半島に帰国しますが、故郷に帰っても住む家や耕す田畑もない人、また日本で既に生活基盤を築いていた人などは日本に残留する事になりました。(詳細は、下記の記事の中の目次:「続いて:あなたが論点とした間違い箇所への正しい回答」の中でご参照)


日本は戦後、1945年から1952年の日本の主権が回復するサンフランシスコ平和条約までの7年間をGHQの占領下におかれましたが、それは「間接統治」であり、占領当局(GHQ)からはさまざまな占領改革の指令がある一方、政府や議会の存続が認められていました。

まずGHQの(対在日朝鮮人政策)について、触れておくべきですが、それは下記のようになります。
→「台湾系中国人及び朝鮮人を、軍事上の安全の許す限り解放国民として取り扱うべきである。かれらは本指令に使用されている『日本人』という語には含まれないが、かれらは日本臣民であったのであり、必要の場合には、敵国民(=日本国民)として処遇してよい。」

とし、非常に「曖昧な二重規定」の扱いとされました。それは、「解放国民」とか「日本人」とか「敵国人」などと錯綜した呼び方がありました。

また、当初、GHQは朝鮮人を帰国させることを基本方針としていましたが、前述のように帰国者の減少、残留する人々の実態を受けて、帰国促進から日本国内での管理にシフトしていく方針転換がありました。

では、後に述べる、サンフランシスコ平和条約に至るまでは、在日朝鮮人は、日本から戦後どういう地位におかれたのか?を事前に見ておきたいと思います。
そのキーワードは「外国人化」で、大きくは2点あります。

外国人化1点目:参政権の停止
戦前は、同じ「帝国臣民」であり、日本「内地」に存在していた男子の朝鮮人、台湾人は選挙権も被選挙権もともに持っていましたが、朝鮮人、台湾人の戸籍は朝鮮なり台湾にあり、「内地」に転籍することは禁じられていた事を利用し、
1945年12月、政府は法改正の附則に
「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権は、当分のうちこれを停止す」として、旧植民地出身者の選挙権を行使させない措置をとりました。
〈ポイント〉
これは、どういう事かというと、在日朝鮮人は戦後の日本のあり方について、「発言権」を持つこともできず、ひたすら「受け身」の立場に置かれることになった、という事です。


外国人化2点目:「外国人登録」を行う義務が課されたこと
1947年.5.2 史上最後の「勅令」(=天皇により制定される法令)にとして、
外国人登録令 が公布施行されました。 
この中身は、「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」(第11条)と定められました。
〈ポイント〉
この時点では、朝鮮人はまだ「日本国籍」のままです。
なのに「外国人とみなすから、外国人登録をしなさい」と命じられたという事で、在日朝鮮人は日本国籍なのに外国人とみなされる、という矛盾した立場に置かれたという事ですね。

これによって、旧植民地出身者は、新たに外国人登録が義務づけられ、
同時に「外国人登録証明書」の携帯と呈示の義務を課されましたが(違反者には刑罰)、
かつて植民地支配下での「協和会手帳」の再来と、当事者が大きな反発を示したことは言うまでもありません。


いよいよ、一番重要な部分になります。

② サンフランシスコ平和条約
 ・・・と言いながら、
1952年のサンフランシスコ平和条約に至る前に段階について、非常に重要な触れるべき事があるので、少し長くなるが、やっぱり先にそちらをみていきます。
  ↓↓

憲法から消えた外国人保護条項
1946年2.13 GHQは、いわゆるマッカーサー憲法草案を日本政府に提示しました。
少し長いですが、重要な点なので出来るだけはしょらないで、田中宏さんの書いた文章よりほぼ全て抜粋しますので、一緒にご確認頂きたいです。(「来日外国人人権白書」P13~より)ざっとでもいいのでご一読下さい。

下記は、①がGHQ案と、②が、GHQ案を受けて作られた中間的日本案である。読みにくさはあると思いますが、まず一度、ご一読願いたい。

① GHQ案
第13条 すべての自然人(All natural persons)は法の下の前に平等である。人種、信条、社会的身分、カーストまたは出身国(national origin)により、政治的関係、経済的関係または社会的関係において差別されることを、授権しまたは容認してはならない。
第16条 外国人は、法の平等な保護を受ける。
② 日本案
第13条 凡ての国民は法律の下に平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分又は門閥に依り政治上、経済上または社会上の関係に於て差別せらるることなし
第14条 外国人は均しく法律の保護を受くるの権利を有す

  ↓
日本案は、外国人の保護をうたった趣旨は生かされているが、注意深く見ると、
GHQ案の「すべての自然人」は、→「凡て(すべて)の国民」に、
そして「出身国」は削除されており、すでに「国民」へのこだわりがみられる。
  ↓
次の段階で、日本政府は、外国人の保護を独立条文に掲げなくとも、一般的な平等条項に含めることを提案、次の「新13条」に統合することに成功した、すなわち

新13条 凡ての自然人は、その日本国民たると否とを問わず、法律の下に平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分若しくは門閥又は国籍に依り、政治上、経済上または社会上に於いて差別せらるることなし

上記の統合された新13条では、太線部分から明らかなように、マッカーサー草案にあった外国人保護の規定の趣旨はまだ生き残っていた。
(すなわち、外国人保護の独立条文(第16条)を消すために、「凡ての自然人」を復活させ「日本国民たると否とを問わず」を挿入、さらにいったん削除した「出身国」を「国籍」として復活させたのである。)
 ↓
ところが、日本政府の「憲法改正草案要綱」が発表される直前、前引の新13条の太字部分の削除にとりつけることに成功する。(外国人の保護は『凡ての自然人』に含まれるとGHQが見たのであろう。かくして、3月6日に発表された政府の憲法改正草案要綱は次の通りとなっている。

第13条、※凡そ人は、法の下に平等にして人種、信条、社会的地位又は門地に依り、政治的、経済的又は社会的関係に於いて差別を受くることなきこと

そして、4月10日に行われた戦後初の総選挙を受けて招集された第90回帝国議会が制憲議会となった、また憲法の口語かがはかられ、できあがった憲法の「平等条項」は、最終的に次の通りとなった。

第14条第1項  ※すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的地位又は門地に依り、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

〈ポイント〉
それは、「凡そ人は」が、→「すべて国民は」となったことによって、
直接外国人の人権を保障する規定はすべて消えたこと
にある。
この間の過程を明らかにした古関彰一教授は、
いみじくも「この条文〈外国人の保護規定〉に関するかぎり、GHQ案とは似ても似つかず、完全に日本化した、といえるだろう」と指摘している。(同「新憲法の誕生」中公文庫 1995)

   ↓↓
以上のことを踏まえた上で、主題テーマにつながる、在日朝鮮人の国籍をめぐる処理がなされた、1952年のサンフランシスコ平和条約についてようやく触れていきたい。(総論後半へ)
(はぁー、長いので読んでいても疲れると思いますが、打っていても疲れるものです。いよいよ本題なので引き続き、頑張って読んでください。)

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〇総論:「戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪された」のか?(後半:サ条約について)


1952年4.28  サンフランシスコ平和条約
 =これは、戦争をした国々の間で、戦争の結果、今度どうするかを講和条約として取り決めたものです。

総論の結論から述べると、
このサンフランシスコ平和条約発効を機に、
日本政府は、(サ条約の9日前)先立つ1952年4月19日付けに
法務府(現在の法務省)の「民事局長通達」(1952年4月19日、民事甲第438号)によって、

(1) 朝鮮人および台湾人は、〈日本〉内地に存在する者も含めてすべて日本国籍を喪失する。

とし、旧植民地出身者は「日本国籍」を喪失し、したがって「外国人」になったとの日本独自の見解を打ち出した。

〈ポイント〉
つまりこれは、日本が「サンフランシスコ平和条約の発効とともに、旧植民地出身者は日本国籍を喪失する」と、先んじて宣言したという事です。
  ↓ ↓
日本はこのサンフランシスコ平和条約の領土変更に関する内容の約2条(a)を、恣意的に、意図的に「国籍を定める」条項として解釈し、一方的に旧植民地出身者から日本国籍を喪失させた。
恣意的とは、論理的な必然性がないさま、自分勝手なさまを意味します。

では、その恣意的に解釈したと述べる根拠とは?
そのサ条約2条(a)の実際の中身とは?について見ていきます。

〈サ条約2条(a)〉
→「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」
という領土変更に関する内容である。

そしてそれを「恣意的」に、解釈した日本の独自の見解であったという根拠
とは?
 ↓ ↓
何故なら、
このサ条約には、領土放棄条項はあっても、国籍変動に関する規定はどこにも存在しないからである。 したがって国籍喪失者の範囲を知る事もできないものであったという事だ。

これは、どう考えても日本の植民地支配の歴史的経緯を無視した暴挙であるといわざるをえない。
なぜなら、1910年、日韓併合により、一方的に「日本国籍」を押し付け「帝国臣民」たることを強制した人々を、(日本のサ条約の恣意的解釈により)再び、一方的に「日本国籍を喪失させた」という事だからだ。


くどいようですが、ここまでの重要な事を、再度整理します。
戦後日本は、在日朝鮮人に対して、日本国籍をまだ保持していたにも関わらず、
占領下において都合よく「外国人とみなし」た。(1947年外国人登録令)
 ↓ ↓
続く1952年のサンフランシスコ平和条約においては、
・当事者の意思を問わず(選挙権は停止)、
・国内立法もないまま
サ条約の領土放棄条項を、恣意的・意図的に「国籍」変動に関する規定と解釈し、在日朝鮮人から、「日本国籍」を喪失させた という事である。

これらから、日本は残留した在日朝鮮人たちに
「国籍を選択する自己決定権」を一切与えなかったと言え、又その不条理さは明白であると言える。

お分かり頂けたでしょうか?

ここまでで、私は説明の中で「剥奪」という言葉を敢えて一切使用していないが、
その内実を見た時、
『在日朝鮮人が日本国籍を一方的に「剥奪」された』という言葉で表現することは、何ら過剰でも不適切な表現でもないという事がわかるだろう。
冒頭述べたように、私は、これらの歴史事実を共有事項として理解した上で、またその文脈でもって、日本国籍を「喪失」したと表現する・表現されるというならば、勿論何ら、異論はない。またわたし自身も、何がなんでも「剥奪」という言葉を今後も使おう、なんて思ってはいない。(使わないとも考えていないが)


以下、サンフランシスコ平和条約についてのくだりに再び戻りたい。
そもそも、サ条約とは、
「朝鮮の人民の奴隷状態に留意しやがて朝鮮を自由独立のものたらしむる」としたカイロ宣言(1943年12.1)とその履行を約束させるポツダム宣言(1945.7.26)との両宣言に基づいて、作られたものであるが、
これまでみたように日本の在日朝鮮人の国籍に関する取り決めは、その本来の趣旨から大きく背いたものである。

また、田中宏さんや鄭暎恵さんは、次のように指摘する。
日本国憲法は、第10条で
「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と規定しているが、
この一民事局長の「通達」一本で国籍を剥奪したことは、明らかに憲法違反である、と。

また、世界人権宣言は国籍権として、
「国籍を有する権利」「国籍を取得する権利」
「国籍を奪われない権利」「国籍を変更する権利」を謳っているが、日本政府のしたことはこれらを全て踏みにじるものであったとも言える。


▼またサ条約と同日に制定された法律(=法律126号)に、
一般外国人を対象とした、サ条約の前年に公布された「出入国管理令」(1951)を旧植民地出身者にも適用したが、また適用するにあたっての暫定措置を定めた法律に下記がある。
  ↓
それは、
1952.4.28 「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係書命令の措置に関する法律」(法律126号)である。
  ↓
これによって、朝鮮人、台湾人については、「別の法律で定めるところにより、その者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく、本邦に在留することができる」としたのである。

〈ポイント〉これは何を意味するか? 
→それは、つまり歴史的背景をもつ旧植民地出身者といえども、在留資格、在留期間を除いては、一般の外国人と同じ出入国管理の対象とした、という事である。これにより、退去強制制度や再入国許可制度を、旧植民地出身者にも適用したという事で、これは、明らかに植民地支配の責任を不問にした内容であった。

また更に日本政府は、サンフランシスコ平和条約と、同じ日に、在日朝鮮人に対して、
1952.4.28 「外国人登録法」を公布適用した。(登録証明書の常時携帯、呈示義務に加え、1955年からの指紋押捺、3年ごとの切り替え制度)
これによって、在日朝鮮人の存在をいっそう治安管理・監視の対象下においたのである。

これら①出入国管理令と②外国人登録法が、
戦後の日本の外国人管理法制の二本柱となった
のである。
田中宏さんは、次のように述べている。

かくして、いったん「外国人」にしてしまえば、あとは日本国民でないことを理由に国外追放も可能なら、さまざまな排除や差別も、ことごとく「国籍」を持ち出すことによって、正当化され、それが基本的には今日まで維持されているのである、と。 
(「在日外国人 第三版」より)


▼それでは、諸外国において植民地の独立にともなう国籍処理はどうなっているのだろうか? 
(これも非常に重要な押さえておくべき点ですね)

・イギリスの場合
本国と新独立国のあいだでは、ある種の「二重国籍」が保障された。1948年のイギリス国籍法によると、新独立国の国民は、「イギリス連邦市民」という地位をもち、イギリス本国では「外国人」とは扱われなかった。

・アルジェリアのフランスからの独立の場合
その独立は、民族解放戦争をへて、1962年の「エビアン協定」によって達成された。同協定の附属文書には、フランスにおけるアルジェリア人は、政治的権利を除いてフランス人と同様の権利を有する、とうたわれている。

朝鮮の独立は、しかし日本と朝鮮の関係で達成されたのではなく、日本の敗戦の結果として実現した。その点は、「ドイツの敗戦とオーストリアの独立」が、日本によく似た事例であるといえよう。
 ↓
西ドイツ(当時)では、1956年5月、国籍問題規制法を制定して問題の解決をはかっている。それによると、併合により付与された「ドイツ国籍」は、オーストリア独立の前日にすべて消滅すると定めるとともに、一方で、ドイツ国内に居住するオーストリア人は、意思表示によりドイツ国籍を回復する権利をもつ、すなわち「国籍選択権」が認められたのである。(川上太郎「西ドイツの国籍問題規制法」『戸籍』1976年5月号参照)


またこれら諸外国の例から、鄭暎惠さんは下記のように述べている。
  ↓
第二次大戦後における植民地の独立の際における国籍処理の例をみるならば、
少なくとも第二次世界大戦後においては、領土変更については国際法上の原則ともいうべき通例が存在することは明らかである、と。
それは次の3点になる。
① 国籍問題は条約によらず、当事国双方の国内法によって解決されている。
② 領域変更に伴う居住民国籍の自動変更という考えたとられていない。
③ 個人の主体的決定による国籍選択を認めている。 

これら諸外国と比較した時の、日本の戦後の旧植民地出身者に対する処遇の不条理さについて述べた、在日朝鮮人の当事者の下記の言葉がとても分かりやすくシンプルに表現されていると私は思ったので是非ご紹介しておきたい。

「日本国籍なんかほしくないが、捨てた覚えもない、ただ自己決定権が欲しい。」

これは下記の訴訟をおこしたキム ミョンガン氏の言葉である。
※在日朝鮮人の日本国籍剥奪、その不当性を問う(キム・ミョンガンの国籍確認訴訟2012)

※こちらジャーナリストの中村一成さんが丹念に書かれた文章は、本テーマについてその歴史の経緯についてより理解が深まる内容になっている。


そして、
そもそも、サンフランシスコ平和条約の在り方について
総論のさいごに、1点だけやはり押さえておくべき点として、徐京植さんの著書より抜粋して、下記のことをどうしてもお伝えしておきたい。

サンフランシスコ講和条約には朝鮮人の代表は誰も参加していません。大韓民国政府は講和会議に加わりたいと申し出ましたが、日本政府が反対しました。日本と韓国は戦争していなかったというのが理由です。(中略)アメリカもその主張を受けいれました。(中略)
敗戦した日本が戦争の後始末をする条約のはずでしたが、東西冷戦の影響を受け、アメリカと関係の深い資本主義陣営の国だけが参加した条約でした。そのため「片面講和」とも言われます。
  (「在日朝鮮人ってどんな人?」より)

  ↓ ↓
〈ポイント〉
このように、植民地支配の責任を認めようとしない日本と、東西冷戦を背景とし自己の利益にかなう戦後秩序を作り出すため朝鮮の民族自主権を否定したアメリカ、という両者の思惑によって、サ条約による旧植民地出身者の戦後処理がなされたことは、何度も述べるが、そこにはやはり当事者の意思の反映は全くなく国家の論理によって、抑圧された人、傷つけられた人々が置き去りにされたものであったという事を、私たちは忘れてはいけないだろう。
  ↓ ↓
という事で、重複する内容もありますが、
  ↓ ↓

▼総論のまとめ ータイトルの問いへの回答ー


戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に『剥奪』された」とは、何を意味するのか?
  ↓ ↓
①それは、これまでみたように選挙権停止から、サンフランシスコ平和条約における「国籍」の一方的な剥奪、また外国人登録法、出入国管理法の適用などの、戦後の一連の日本の政策は、植民地支配の責任を不問にしたといえる内容であったという事。また、
②植民地支配から「解放された」はずの存在である在日朝鮮人を、あらゆる制度から排除していく事になる差別に満ち満ちた「戦後の日本の在日政策」の、まさに「はじまり」の序章ともいえるものであったという事。

この2点を回答として述べておきたい。

また、これら戦後の在日朝鮮人への扱いに通底する「差別と排除の日本の政策・まなざし」を知る事は、2021年にいたる今、その根底に脈々と流れてきたものの上に、現在の日本の入管法の問題や排外的な外国人政策が存在することを、理解・認識する上で、非常に重要なことであると思う。
つまりその問題の解決のためにも欠かせない認識であるという事だ。

ずっと長きにわたり、戦後も在日朝鮮人・在日コリアンは、日本国籍でない事を理由に、権利の蚊帳の外に放置されてしまった。
そしてそういった地続きの中でこそ、
「(外国人は)似て食おうと焼いて食おうと自由」(1965年法務省入国参事官であった池上努の著書〈法的地位200の質問〉)という言葉があったり、
「不法入国した三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」と東京都知事の発言(2000年自衛隊員への災害出動演習前に話した言葉)が過去あったという事。
ある意味では、それらの言葉は突出したものではなく、水面下で(あるいはそうでもないが)脈々と流れてきたものの現れの1つであったのだという事だ。(その現れは批判されて然るべきという言葉では到底済まされない妄言であることは、勿論言うまでもない。)

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続いて:各論 あなたが書いた中で私が論点とした箇所への回答(2つ)


ずいぶん長くなったので、上記総論だけでもう各論への回答はわたしは充分だと思ってるし本当は終わりにしたいが、議論を投げかけた方が多分納得されないと思うので、各論にて具体的な事にやはり触れておきます。(またこの文章は実際コメントされた方に直接向けて書いたものであり、他の方はその前提でお読み頂きたいです。)

戦後長らく「在日は日本国籍を剥奪された」と言う主張が見られなかったのに、ここ数年急に見られるようになったのはどういうわけでしょうか。先のコメントで指摘したように、終戦直後に「日本国籍を剥奪された」ことについて当事者である在日から反対運動などは全く見られません。当時の状況で「敗戦国民」と言う不利な地位を逃れるというメリットを享受しておきながら、数十年後に「無理矢理国籍を剥奪された」と翻意するのは、全く誠実性が感じられないどころか完全に嘘つきです。(2回目コメントより)

  ↓
(1)戦後、「日本国籍を喪失した」事について、在日朝鮮人からの反対運動はなかった について。

確かにあなたのいうとおり、「日本国籍」を離脱したい動機はあったし、反対運動はあまり立ち上がらなかった。だがしかし、それは決して日本国籍の喪失とそれが意味する苦難の歴史を当事者が理解し、受け入れたという事では、決してないという事。
  ↓ ↓
植民地下において、日本国籍を付与されることは、自民族を否定し天皇の赤子たる皇国臣民にさせられる事であった。そんな朝鮮人が、解放後、その国籍の離脱を、「民族の解放」の象徴と喜び、捉えた事は被抑圧者からすれば当然の心理・現象である。
その意味でいえば、あなたが書いた「日本国籍を失いたくなかったが」というのは、そのとおり当てはまらない(ただ私はそんな事はそもそも書いていないし、述べていないが)。
別に日本国籍なんか当時の在日朝鮮人は心情的に欲しくはなかっただろう。
だから、何度も述べるように問題は、
日本政府が朝鮮人に、国籍の自己決定権を与えなかった事と、
また日本国籍を離脱した場合の差別的な処遇をするべきではなかったのだ。という事である。

また、そして、当事者不在のまま、取り決められたその「日本国籍」の喪失が、戦後生きていく在日朝鮮人たちの一人ひとりの人生にとって実際、どれほどの排除と差別に満ちたものになるか?、その苦難の歴史のはじまりを認識できた朝鮮民衆が、一体如何ほど、いたというのだ。

あなたがいう、「当時反対運動がなかったから当事者は受け入れていた」というような主張は、いじめられた側が抵抗してなかったからそれを嫌がらず受け入れていたと述べる、「いじめる側の論理」と同じではないか。
それは自らを省みる「主体と責任の放棄」に外ならず、そのような論法と思考様式自体が過ちであると指摘しておく。

それから、私は更に言いたい。
あなたのいう「敗戦国民」という不利な地位を逃れるというメリットを享受しておきながら、
とあるが、在日朝鮮人たちの生活・人生にとって、一体どのようなメリットがあったのかと問わざるをえない。
解放後から1982年までの実に植民地支配とほぼ同じ年数ともいえる37年間にわたって、そのあらゆる面で「国籍条項」という差別を受け、健康保険や年金加入の除外、扶養手当、公共住宅への入居などあらゆる社会保障から容赦なく切り捨てられた者たちにとって、果たして、どのようなメリットが一体あったのか?と。

また同時に、「日本国民」があなたのいう所の、敗戦国民という不利な地位のデメリットがあったとして、具体的にそれはどのようなものがその生活の中で、また権利の上であったというのだ?
加害の歴史を省みて、戦争を遂行した自らの国家や天皇制を批判する立場であらねばならなかった事が、デメリットとでも言いたいのだろうか?
在日朝鮮人は、当時自らを解放民族と喜びこそすれ、「戦勝国民」であると主張した一般民衆はどれほどいたのだ?
そのようなことを述べるあなたの目線は、当時の日本国家の論理と同じ目線であり、また在日朝鮮人は「戦勝国民」気取りだったと、自らを被害者的に述べることによって、その加害の歴史と向き合わずその責任を放棄しようとする側の詭弁に他ならないだろう。
あれほどの、甚大な死者・犠牲者を出したアジア侵略の遂行者である日本のその歴史を振り返る時、そもそも誰目線に立っているのだと私は言いたい。


(2)「日本国籍を一方的に剥奪された」という事は、戦後長らく主張がなかったのに、ここ数年見られるようになった について。

これについて、指摘するのもこちらが恐縮するくらい、単純かつ致命的に間違っておられる。その主張は、ここ数年出てきたのでは決してない。

私は、20年前に歴史を知る事になった時に既にそのような主張があったし、少なくとも、私の今手元にある一番古い本、それは今から32年前の1989年に発行された本の中でも、その事が書かれている。(「皇民化政策から指紋押捺まで」徐京植 岩波ブックレット№128)

故に決して、ここ数年で出てきた話や主張では全くない。さすがに一番最初に主張された時期までは調べきれていないが、少なくともあなたが述べている事と、その知識の元になっている本か何かが、間違っているという事は明らかだ。今一度、あなたの情報元となったものの、その信頼性を疑ってみられた方がいいのではないだろうか。

また、最も信頼にたる事として、私のこの記事のタイトルテーマは、今から35年前の1986年、司法の場で提起された下記の事例をその証明として紹介しておきたい。
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それは、下関の趙健治さんが山口地方裁判所に提起した「日本国籍確認、損害賠償、謝罪請求事件」というものである。
田中宏さんは、この広島高等裁判所による判決について、その主張はしりぞけたものの、判決理由の中で、在日朝鮮人の国籍処理そのものに異をとなえ、司法の場において、より踏み込んだ言及をしたものであったとして、紹介している。貴重なので下記、全文掲載するのでお読み頂きたい。

広島高裁、判決理由
「在日朝鮮人が、その歴史的経緯により日本において置かれている特殊の地位にもかかわらず、日本人が憲法ないし法律で与えられている多くの権利ないし法的地位を享有し得ず、法的、社会的に差別され、劣悪な地位に置かれていることは事実であるが、右は在日朝鮮人が日本国籍を有しないためでなく、主として日本の植民地支配の誤りにより在日朝鮮人が置かれた立場を考慮せず、日本人が享有している権利ないし法的地位を在日朝鮮人に与えようとしなかった立法政策の誤りに由来する
(1990.11.29、民事第2部)

※またこの判例の事は、私が読んだ複数の本でも記載があり、決して埋もれているような歴史事実ではないはずである。(=本当にきちんとした本で勉強しようと思えば、すぐわかるはずである)


そして最後にもう一点だけ、各論のまとめとして、述べておく。

▼各論のまとめ ー出来事の背景にあるものを見ることー

戦後から確かに上記裁判も30年以上の時を経ている事について。
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1つ目の争点とも絡むが、戦後の混乱の中、在日朝鮮人たちは、祖国への思いはありながらも日本で定住していくべきか、本国の政情の不安定さと日本での強い差別のはざまで翻弄されながらも、この日本という地で、ただただまずは必死にその目の前の生を、生き抜いていく事で精一杯の時代があったはずだ。
韓国との国交が正常化されたのもようやく1965年の事である。

そしてその貧困の中でも、1世らの子どもの2世で大学に通えるものも(非常に少ない層であったと思うが)存在しはじめ、いわゆる知識人と呼ばれる人も表れ、ようやくその苦難の歴史や戦後の日本の在日朝鮮人政策に対してなど、上記のような司法の場でだったり、ようやく「声」として発した事が「日本社会の目にも届く形で現れるようになった」のではないだろうか。(在日朝鮮人たちによる民族団体による運動は戦後からずっとあり、本タイトルテーマについて既に声は発せられていたのかもしれない、そこまでは私は今回調べきれていないが)
これらは、歴史事実をもとにした私の想像になるが、大きくは外れていないはずである。

だから、朝鮮半島での政情不安やより大きくは東西冷戦の影響、また日本の差別政策などの中で生きてきた、在日朝鮮人たちの姿がまずあるという事。

それなのに、戦後すぐ反対運動がなかったという一現象を、ただ単純にそのすべての結果として述べる事は、「歴史背景」という言葉やその概念を無視しており、そしてあまりにも単純化しているという事を私は言いたいのである。そんなことでは歴史の真実は何も見えてこないだろう。


▼その他、細かいところについて

終戦直後は朝鮮人の力が強く、警察や役所を襲撃して、手をつけられないようになっていた。
典型的なのが阪神教育闘争。初の非常事態宣言が出たことでよく知られている。(中略)当時は「敗戦国民(=日本国籍)」という不利な地位を保持する動機はなく、むしろ「敗戦国民(=日本国籍)」から離脱する動機こそあった。それが「俺たちは戦勝国民だ」という主張につながり、GHQはそれを「お前らは戦勝国民ではなくTheThirdNationの人間だ」と評したわけだ。
(1回目コメントより)

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長さの関係上、上記について簡潔に言及する。

解放後、確かに在日朝鮮人はまさに生きるために、様々な抵抗運動をしただろう。
それは前述したように、サ条約に至る前に日本国籍をもっていた朝鮮人たちへ不当な外国人登録令(1947年)を公布した事に対してであったり、あなたが書いた、民族教育を激しく弾圧する政府当局への抵抗運動の阪神教育闘争(1948年,この時16歳だった朝鮮人の少年が1名、警察が発砲した事により亡くなっている)だったり、未払い賃金を要求したりなどだ。でもそれら民族的権利の回復・保障という当然の要求の抵抗運動を、不法行為・暴力行為として述べるのは、やはり倒錯した認識であると言えるだろう。

また近現代東アジア国際関係(朝鮮研究)を研究されている小林知子さんは、(「日韓 新たなはじまりのために20章」の中で)、次のように述べる。
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また1946年に大村清一内相や椎熊三郎とった議員が、朝鮮人・台湾人の「闇市」での行動や「密航」等を非難しながら「第三国人」という言葉を国会で使用し、この差別語化された表現をマスコミが蔓延させ、敗戦後の日本人の生活苦や不満のはけ口として、在日朝鮮人はいわばスケープゴート化されていった。だが実際、闇市に従事していて人は当然に日本人の方が多く都市部ではこのような市場がなければ日本人も生活できなかったのである、と。

またこの「第三国人」という言葉は、GHQが定義し用いだしたという説もあるが、根拠となる文書はない、という。(「第三国人」については、別のnoteの【資料版】にて補足)
またこのように朝鮮人に対して、「犯罪分子」として見なすような当時の日本の差別的認識が、当時の吉田茂首相が、マッカーサー宛にあてた手紙の中に、克明に表現されており非常に分かりやすく読み取れる。(一読の価値はあると思うのでこちらも【資料版】にて是非、読んでみてもらいたい。)
あぁ、一国の首相がこのような認識だからこそ、逆に植民地支配が可能だったのだと私は、逆に納得させられるような内容であった。


〇本記事で取り上げた項目についての、追加資料


→次のnoteの【資料版】の中も、2つの掲載だけですが、是非一度少しでもお立ち寄りいただき、ご覧いただきたい。(実は私は今回、初めて吉田茂首相の手紙を読みましたが、貴重な資料だなと本当に思うものでした。)


〇おわりに -私に議論のボールを投げた方に言いたい2つのこと-

1)私が否定したあなたの主張は、別にあなたが言い出した事ではなく既にある主張をあなたが受け入れたという事だと思います。あなたはある意味、歴史に興味があるのでしょうし情報収集力はあるのでしょうから、今一度、「別の視点」で歴史を知り、まっさらな気持ちで歴史と向き合って頂けたらいいなと思います。余計なお世話でしょうが、それは他ならぬあなた自身のためだと思います。
そしてこの私のnoteの文章を、あなたのnoteを読む読者の人にも読んで欲しいなと私は思っています。

2)色々とポンポン議論を投げかけられそうなので事前に伝えますが、それに全て応答する義務は私にはなく、今回のように応答するか否かは、全くもって私の自由でありますので、その点念の為お伝えしておきます。
前回の植民地支配についての記事もそうですが、本から引用したばかりのように見えるこの記事も、これでも私なりにない頭をひねり出し伝える事を意識して、時間をかけ作成してます。とりあえず私も自分のペースで読みたい本を読みたいものです。このテーマに関して私はボールは投げ返したつもりなので、引き続き議論はしませんし、他の事でボールを投げられて私がスルーしたとしても、それはあしからずという事です。



▼誰かに聞いてほしいひとり言・つぶやき

 やや語気の強い書き方になった部分もあると思いますが、ここで私が痛烈に批判しているのは、植民地支配政策やアジア侵略はもとより、かつての植民地支配を省みなかった戦後当時の対在日朝鮮人政策であり、また戦後長年にわたり「国籍差別」を放置してきた日本政府です。そして、それらを批判する事ができないのはおろか、当然の権利を主張してきた在日の歴史を否定しようとする言説に対してです。

私には、「次世代を担う者としての責任」があります。当事者側にルーツがある私も当然ながら、その責任の重さは他の方と全く同じだと思っています。またこの文章を読んで頂けている方は、恐らく同じように問題意識をもち歴史を知り考えてこられた方が多いと思います。
ただ歴史について述べる時、私は、自分のルーツから(親や自分の語りなど)発せられることは、その目的のために、最大限に発するのですが、今回のような文章になると少し日本人の方を責めているみたいで(もちろんそんなつもりもなく、又そのように考える必要もない事は頭では理解しておりますが)何ともいえない少し居心地の悪いような気持ちになることもあります。(実際歴史修正主義の方は自分が責められていると感じているように思われます)。

 次世代を担う者としてと、またプラス私自身でいうと「当事者側のルーツをもつ者」だからこそ、戦争や国家暴力などの悲劇を決して繰り返してはならないという自分の責任があると考えています。(責任と何度もいうと何だか重苦しい話になりますが、やはり)
そして、私がこんな事を言わなくても歴史と向き合っている方は、既にそんな事もわかっているよ、と理解してもらえているだろうなとも思いますが、当事者側にルーツをもつ私は、何だか自分の発し方への戸惑いや反省、ためらいは、いつもつきまといます。でも同時に、そういった感情も大切でもっているべきものであるなぁとも最近よく思っています。

何を言っているのか自分でも分からない結論のないひとり言になりました。実生活において人のお役に立てる実践活動は何も出来ていない自分ですが、そんな感じでとりあえず、まだまだ知らない事が多いので勉強しながら、また「生活」とのバランスも大切にしながら、ぼちぼちやっていきたいと思います。

こんな長いものを最後までお読み頂いて、どうも有難うございました。

                  2021.8.28

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※この記事について
この記事では主題についてあくまでも一点のみ焦点をあて掘り下げて扱わせて頂きました。
故に戦後の在日の「国籍」をめぐる歴史等々(戦後の在日の国籍欄に記載された「朝鮮」から、本国での分断国家の成立とその影響、また日韓条約などについて等々)は、敢えて取りあげておりませんのでその旨申し添えます。


〇主な参考文献
田中宏「在日外国人 第三版ー法の壁、心の溝」岩波新書 2013年
田中宏・江橋崇編「来日外国人人権白書」明石書店 1997年
田中宏・板垣竜太編「日韓 あらたな始まりのための20章」岩波書店2007年
鄭暎惠「〈民が代〉斉唱 アイデンティティ・国民国家・ジェンダー」岩波書店 2003年
徐京植「在日朝鮮人ってどんな人?」平凡社  2012年
尹健次「在日の精神史1 渡航・解放・分断の記憶」 岩波書店 2015年