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【資料版】『戦後、在日朝鮮人は日本国籍を一方的に「剥奪」された』とは、何を意味するのか?


この記事は、タイトル記事のその名のとおり【資料版】です。
(といっても2つしかありませんが是非ご参照ください)

▼1つ目:吉田茂首相の手紙
日本の戦後政治の骨格を形づくったといわれる吉田茂首相のマッカーサー宛に手紙(1949年8月末から9月初旬に書かれたと推定される)


朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは総数100万に近く、その約半数は不法入国であります。私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。その理由は、次の通りであります。

(1) 現在および将来の日本の食料事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
(2) 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。
(3) さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。

戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです[詳細省略。1948年5月末までで、9万1235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている]。
さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
(1) 原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
(2) 日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。許可は日本の経済復興に貢献する能力をすると思われる朝鮮人に与えられる。
上述のような見解を、原則的に閣下が御承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。             敬 具   
  吉田 茂                      
 連合国最高司令官
  ダグラス・マッカーサー元帥

(原文は英文で、アメリカのマッカーサー文書館所蔵。ここに紹介した大沼保昭氏の邦訳は「法律時事」1979年4月号所収。)

                (田中宏「在日外国人 第三版」より)

田中宏さんによるこの手紙についての記述より
「この書簡が多くの事実誤認と民族的偏見に満ちていることは、あきらかである。東西対立のなかでのアメリカの極東戦略の必要性から、日本占領政策は大きく変質しつつあったとはいえ、さすがにアメリカはこの要求には応じなかった。しかし、日本のこうした認識が結果において認められ、植民地統治が生んだ在日朝鮮人に対する事後責任は、結局のところ〈免罪符〉を得たかの観さえ残ったのである。」

わたしの感想
すみからすみまで見事に民族差別にみちた酷すぎる内容。このような認識が、当時の日本国全体の認識であり、だからこそ植民地支配は可能だったのだと思わざるをえない。


▼2つ目:「第三国人」という言葉について。
尹健次さん「在日の精神史1 渡日・解放・分断の記憶」P105より

第三国人という言葉について書かれたものはそう多くはないが、しかし在日朝鮮人を論じるに際して重要な問題として位置づけられてきたことは間違いない。私がこれまで読んだなかでは、内海愛子『「第三国人」ということば』[85]がもっとも適切で、まとまったものではないかと思う。以下、そのまま引用しておきたい。
   ↓ ↓
「・・・このように「第三国人」とは、主要には朝鮮人をさしながら、「台湾人」「琉球人」を時には含めることばとして使われていたようである。この場合、「第三国人」は、「連合国人」「中立国人」「枢軸国人」「無国籍人」等という用語と併用されて、敗戦後の日本における「非日本人」あるいは「外国人」を分類するための一つの範疇として用いられている。・・・[ただ]「第三国人」ということばが生まれたのは以上のような経緯であったとしても、これが実際に使われはじめるとさまざまな意味や感情がこめられてくる。
「このことばを、日本人が使うときには、なにか恐ろしげな、また厄介なものにぶつかっているような感情をこめている」(玉城素「民族的責任の思想」)場合もあるだろうし、「侮蔑的意識」(旗田巍、日本人の朝鮮間)をこめている場合もあるだろう。
そして実際にこのことばがどのように使われたかといえば、「いわゆる『第三国人』だという口実のもとに、在日朝鮮人を中傷し、あらゆる迫害をくわえ、ほとんどの職場からおいだした」り「いわゆる『第三国人』だということで、あらゆる正常な職場から追出され、生活難にあえぐようになった」(朝鮮問題研究、1958年12月号)というように、在日朝鮮人に対する新たな差別、非難のことばとして使われだしたのである。」

              尹健次「在日の精神史1 渡日・解放・分断の記憶」
※矢印(↓)以下の、文章は尹建次さんの著書の中で、引用された内海愛子さんの文章である。