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パノプティコン社会からシノプティコン社会へ——現代哲学におけるメディア・技術論的転回

「フーコーは、加速度的に増大している近代の監視システムにかんして、われわれの理解を深める点では大いに寄与したが(中略)、もう一つのきわめて重要性を持つ反対のプロセスを無視するのである。つまり、監視システムと同時的に起こり、同じような加速度で発展しているプロセスである。具体的には、マスメディア、とくにテレビであり、それは(中略)多数の者に(中略)少数者を見るようにさせるのである。」(Th. Mathiesen, The viewer society:Michel Foucault’s‘ panopticon’ revisited, Theoretical Criminology vol.1, no.2, 1997.)

このような理解にもとづいて、マシーセンはパノプティコンに対抗する概念を提唱しています。パノプティコン(panopticon)は語源的には、「すべて」を表す「pan」と、「見る」にかかわる「opticon」から構成され、多数者を見通す監視システムです。それに対して、マシーセンは「監視」だけでなく、多数者が少数者を見るという見物の側面も同時に備えた概念として、「一緒に、同時に」を表す「syn」を使って、シノプティコン(synopticon)と名付けています。つまり、私たちは「監視される者」であると同時に、「見物する者」でもあるのです。

岡本 裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』 ダイヤモンド社, 2016. Kindle 版.

本書『いま世界の哲学者が考えていること』は哲学者・倫理学者の岡本裕一朗氏(玉川大学教授)による現代の哲学の動向を解説した書籍である。

岡本氏は、現代の哲学が大きな潮目を迎えていると語る。一つは大陸系の哲学者たちが、こぞって英米系の分析哲学を導入しつつあることである。たとえば、ヘーゲル研究は本国ドイツよりも、むしろアメリカにおいて生産的であるように見えるという。カントやニーチェも、さらにハイデガーやフランクフルト学派の研究も、今ではアメリカが中心になりつつある。20世紀末にいったんアメリカへと向かった哲学の潮流は、21世紀を迎えると、再び逆流し、ヨーロッパの研究者たちはそうしたアメリカの動向を踏まえ、再び独自の哲学形成に着手しているように思えるというのである。

現代の哲学の大きな潮流は、もともと3つの流れがあった。それはマルクス主義、実存主義、分析哲学である。それらはそれぞれ、ドイツ、フランス、イギリス・アメリカにおいて盛んであった。それらはその後大きく変容し、フランスの実存主義は次第に影響力を失い、その流行を現象学や構造主義に譲り、1970年代になるとポスト構造主義がブームとなった。マルクス主義は、社会主義体制の歴史的な崩壊と相前後して、哲学としても影響力を失っていった。それに代わり、ドイツではフランクフルト学派や解釈学が展開されるようになる。一方、アングロサクソン系の分析哲学は、その内実を変容させながら、現在でも現代哲学の中心的な勢力を保っている。

こうした20世紀後半の哲学の潮流は「言語論的転回」と括ることもできる。言語論的転回では、①「言語によって世界が構築される」とみなす。これは一般に「言語構築主義」とも呼ばれ、この考えはジャック・デリダの表現「テクストの外には何もない」(『グラマトロジーについて』)に集約される。これはまた、②「異なる言語ゲームは共約不可能である」という考えにもつながる。言語が異なるとき、それによって構築される現実も違ってくるというわけである。

これらの考えは、21世紀を迎える頃には、ポストモダンの世界的な流行も終息し、「言語論的転回」に代わる新たな思考が、模索されるようになった。岡本氏はこの新たな動向を、①自然主義的転回、②メディア・技術論的転回、③実在論的転回という3つの流れにまとめている。「自然主義的転回」とは、「心の哲学」を提唱するジョン・サールに代表されるような、最近の認知科学、脳科学、情報科学、生命科学などの成果を取り込んだ流れのことである。この傾向の研究は、心をいわば自然科学的に研究するため自然主義的転回と呼ばれたり、認知科学的転回と表現される。「メディア・技術論的転回」とは、コミュニケーションが行われるときの物質的・技術的な媒体を問題にする学問のことである。代表的なものは、ダニエル・ブーニューやレジス・ドブレの「メディオロジー」の哲学である。第三の「実在論的転回」とは、新たな存在論的潮流である。これはカンタン・メイヤスーの「思弁的実在論」やマルクス・ガブリエルの「新実在論」に代表されるもので、「思考」から独立した「存在」を問題にする哲学である。

こうした新たな潮流を踏まえ、ポスト構造主義で転回された議論は新たな段階を迎えつつある。例えば、「監視社会」や「権力」の構造についてミシェル・フーコーが70年代に提唱した「パノプティコン」という考えがある。これは少数者が多数者を監視するような仕組みになっている近代社会を分析し批判するものであった。元々はジェレミー・ベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」に基づいて、近代社会のあり方がパノプティコン社会になっているとフーコーはみなした。そこでは少数の監視者が多数の囚人を監視できるようになっているだけではなく、その監視者が不可視化されているため、囚人は監視者がいなくても理想的に振る舞うようになる。いわば、人々はディシプリン(規律=訓練)を内面化させていくのである。フーコーによれば、刑務所だけでなく、現代の税制や精神病院、情報ファイル、テレビ網など近代社会全体がこうしたパノプティコン型になっていると考えたわけである。

21世紀に入り、この状況は新たな段階を迎えている。デジタル化、IT革命とスマートフォン・SNSによる自動監視社会である。アメリカのメディア学者マーク・ポスターは『情報様式論』(1990年)のなかで、フーコーのパノプティコンを現代風に読みかえ、「スーパー・パノプティコン」という概念を提唱している。現代ではあらゆる取引や行動が自動的に収集され、デジタルテクノロジー化されている。しかも、この技術の特徴は、使っている人に「監視されている」と意識させないようにできている。

さらにノルウェーの社会学者トマス・マシーセンは「シノプティコン」という概念を提唱する。マシーセンは、フーコーの「パノプティコン」には重大な側面の見落としがあったという。近代社会では、「監視の技術」だけが発展したわけではなく、「見世物(スペクタクル)」の側面も飛躍的に増大したという側面である。特にマスメディア、特にテレビのような技術であり、それは多数の者に少数者を見るようにさせるというシステムであった。このような理解に基づいて、マシーセンはパノプティコン(panopticon)に対抗する「シノプティコン(synopticon)」という概念を提唱した。パノプティコンの語源はpan(すべて)をopticon(見る)というものだが、シノプティコンは、syn(一緒に、同時に)とopticon(見る)という意味になっている。つまり、私たち多数者は同時に少数者を見る社会になっている。私たちの社会は監視される社会になっているだけではなく、見世物のように多数者が少数者を見物する社会にもなっているわけである。この状況は、スマートフォン・SNSの発達によってさらに加速されているとみることができる。つまり「メディア・技術的論的転回」の一つの流れとして、「シノプティコン」社会になった現代という考え方ができるのである。

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