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フッサール現象学における意識の特権性と「声」の優越性——ジャック・デリダ『声と現象』を読む

現象学が話す言葉(パロール)を守るために、そしてロゴスとフォネー〔声〕のあいだの本質的な絆を断言するために行なう、粘り強く、遠まわしで、骨の折れる努力を目にしても、さほど驚くことはあるまい。意識(実はフッサールは、意識に対して、多くの点で革命的な、果てしのない、感嘆すべき熟考を捧げたにもかかわらず、それが何かということについては一度も自問したことがなかった)の特権は、生身の声の可能性にほかならないからである。自意識(自己の意識)は、自意識がその対象の現前性を保持し、反復することができるような、ある対象との関係においてしか立ち現れないのだから、自意識が言語の可能性とはまったく無関係のものだとか、言語の可能性以前のものだなどということは、決してない。(⋯⋯)たしかにフッサールは、あとで検討するように、体験の持つ根源的に沈黙した、「前-表現的な」層を維持しようとした。しかし、イデア的対象を構成する可能性は意識の本質に属しており、そうしたイデア的対象は歴史的産物であって、創造や思念(ヴィゼ)といった作用のおかげでしか立ち現れないのだから、意識の構成要素(エレメント)と言語の構成要素とは、ますます見分けにくくなるだろう。ところで、その見分けにくさは、自己への現前性(プレザンス)の核心に、非-現前性(ノンプレザンス)と差異(媒介性、記号、参照指示等々)とを引き入れてしまうのではなかろうか。この難題が、一つの答えを呼び寄せる。その答えが、声と呼ばれるのだ。声の謎は、声がここで答えているように見えるすべてのものによって豊かにされ、深められている。声が現前性の保護を偽装していること、そして語られる言葉(ランガージュ・パルレ)の歴史はそうした偽装(シミュラクル)の記録保管庫だということ、このことのために、今後われわれは、フッサールの現象学において、声が答えている「難題」を体系的な難題あるいはフッサール現象学に固有であるような矛盾だと見なすことはできない。このことのために、われわれはまた、その構造が無限の複雑さを持つそうした偽装を一つの幻想、妄想、あるいは幻覚であるかのように記述することはできない。逆に幻想、妄想、あるいは幻覚という概念は、その共通の根への参照を指示してでもいるかのように、言語という偽装への参照を指示しているのである。

ジャック・デリダ『声と現象』林好雄訳, ちくま学芸文庫, 2005. p.30-32.

ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)は、フランスの哲学者。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。エトムント・フッサールの現象学に関する研究から出発し、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの哲学を批判的に継承し発展させた。哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。

本書『声と現象』は、デリダによるフッサール現象学の読解であり、フッサールの『論理学研究』の第一部「表現と意味」を綿密に読解した学術的論文でもある。訳者の林好雄氏によると「その読解に問題があるとすれば、それが綿密すぎるということ、おそらくフッサール自身による読解よりさらに綿密な読解だということだけである」と述べている。本書はフッサールの『論理学研究』の読解という特殊な事情もあって、デリダの著作の中でも最も読みにくいものであると同時に、アカデミックな論文の体裁を遵守しているという点では、最も読みやすいものではないかと、林氏は書いている。冒頭の引用は『声と現象』の序論からの抜粋である。

フッサールが、論理学の現象学的、認識論的解明の基礎となる記号と言語の問題を集中的に論じた第一部「表現と意味」の中から、デリダは、たった一つの身ぶりを際立たせている。それが「還元すること」である。デリダは、「どのページにも形相的および現象学的還元の必要性——あるいは暗黙の実践——が読み取られる」と明言しているが、端的に言って「還元」とは、記号から不純物を除外し、消去して、単純化、純粋化することなのである。

度重なる「還元」(そこで除外され、消去される不純なものはすべて「指標作用」と見なされる)によってフッサールが明らかにしようとしたものが、どのようなものであったのか。それは、まさしく現象学の「諸原理の原理」である「根源的・能与的明証性」であって、そこで対象は、純粋な意味として、つまり現象学的な沈黙の「声」として、「生き生きとした現在」の現前性において、「充実した根源的直観」へと根源的に与えられ、現前するのである。フッサールは、その場を、客観的で論理的な意味の「自己-誘発」的「発生」の場として取り出したいと望んだのである。

デリダはそのことを、フッサールの現象学が「生の哲学」であると表現する。その哲学の中枢において、「つねに意味一般の源泉が、「生きる」という作用として、生きている作用として、Lebendigkeit〔生きていること〕として明確に規定されている」からだという。またデリダは「プシュケ〔心、精神〕という概念のただ一つの中核は、それが意識という形式で作られていようがいまいが、自己への関係としての生なのである。だから「生きる」ことは、還元に先立つもの、還元が現出させるあらゆる分割を結局のところ免れるものの名前なのである」という。

フッサール現象学における「意識」の特権が、生身の「声(フォネー)」の可能性にほかならない、とデリダはいう。というのも、話し言葉としての「声」は、意識の構成要素と言語の構成要素との見分けにくさ、意識がもつ自己への現前性の核心に、言語がもつ非-現前性と差異(媒介性、記号性)を引き入れてしまうのであるが、この難題に対する答えが、デリダによれば「声」なのである。「声」はあたかも現前性があるかのように偽装するものであり、そして語られる言葉(パロール)の歴史はそうした偽装の記録保管庫であった。「意識としての現前性の特権が声の優越性によってしか確立される(⋯)ことができない」ということが、フッサール現象学における隠された明証性である、とデリダは断言する。

こうしたフッサール現象学の読解から、現象学の根源的問題としての(意識としての現前性の特権における)「声」の優越性にデリダはたどり着く。これが後年のデリダの、話し言葉(パロール)に対する書き言葉(エクリチュール)の優位性、エクリチュールにおける「差延(ディフェランス)」といった概念に結実していったのであるが、そのデリダの哲学的出発点とでもいうべきものが、このフッサールの『論理学研究』の読解にあるといってもおかしくないであろう。


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