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「精髄なき全体主義」としての原ファシズム——エーコ『永遠のファシズム』を読む

しかしながら、こうした歴史的順序を確認したところで、なぜ「ファシズム」という言葉が、さまざまな全体主義運動について、一部が全体をあらわしてしまう(pars pro toto)名称として、提喩(メトニミー)の機能を果たしてしまうのか、その理由を充分に説明できるとは思いません。ファシズムはそれ自体、後続の全体主義がもつすべての要素を、いわば「精髄として」含んでいた、と言ったところで仕方ありません。反対に、ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。ファシズムは〈ファジー〉な全体主義だったのです。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体でした。君主制と革命、国王の軍隊とムッソリーニの私兵、教会に与えられた特権と、暴力を奨励する国家教育、絶対的統制と自由市場——これらが共存可能な全体主義運動なるものを想定することはできるでしょうか?ファシスト党は、革命の新秩序を標榜して誕生したわけですが、その資金源となったのは、反革命を期待するもっとも保守的な地主たちでした。初期のファシズムは共和主義を唱え、その後二十年間にわたって、王家に忠誠を誓うことで生き延びたのです。

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』岩波現代文庫, 岩波書店, 2018. p.40-41.(太字は原著では傍点)

ウンベルト・エーコ(Unberto Eco)は、1932年北イタリア・アレッサンドリア生まれの哲学者・記号学者・文芸評論家。ボローニャ大学教授、同大高等人文学研究所所長を歴任。小説家としても活躍。2016年ミラノで逝去。著書に『薔薇の名前』『開かれた作品』『記号論』『バウドリーノ』『女王ロアーナ、神秘の炎』ほか。

『永遠のファシズム』は、1995年4月25日、ヨーロッパ解放記念行事として、コロンビア大学イタリア・フランス学科が主催したシンポジウムにおいて、英語で発表した講演であり、その後「永遠のファシズム(Eternal Fascism)」の表題で『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』誌(1995年6月22日号)に掲載されたものである。この文章はアメリカの学生を聴衆に想定して書かれており、当時の連邦政府ビル爆破事件など、アメリカにも極右組織が存在するという事実が明るみになった頃のことである。ファシズムについて歴史的反省を加えることによって、さまざまな国において起きている問題についての反省をうながすという意図で書かれた。

ナチズムが思想的に一枚岩だったのに比べて、イタリアのファシズムは政治的には独裁体制ではあったが、イデオロギー的・思想的には完全に全体主義的ではなかったとエーコは言う。イタリア・ファシズムは固有の哲学を持っていなかったのである。ムッソリーニにはいかなる哲学もなかった。あったのは修辞だけだという。しかしながら、イタリア・ファシズムこそが、ヨーロッパの一国家を支配した最初の右翼独裁政権であり、はじめて軍事宗教やフォークロアを創り出したのである。

ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえなかった。ファシズムは〈ファジー〉な全体主義だった、とエーコは語る。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、反対に多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体であった。こうした事態が生じたのは、ファシスト党の幹部たちが寛容だったからではないという。単純に彼らは、統制に必要な知的手段を持ち合わせていなかったのである。このファシズムがもつイデオロギー的なまとまりのなさは、いわば「秩序だったまとまりのなさ」とでもいうべき、構造化された混乱であった。哲学的にみれば、ファシズムはいたるところで「蝶番が外れていた」のだが、情動的側面からみれば、いくつかの原型に揺るぎなく結びついていた。矛盾の集合体だったとしても、ファシズムにはいくつかの典型的特徴を列挙することはできるとエーコはいう。そうした特徴をそなえたものを「原ファシズム(Ur-Fascismo)」もしくは「永遠のファシズム(fascismo eterno)」と呼ぶことを彼は提唱する。

エーコは「原ファシズム」の特徴として14項を挙げている。それらは、伝統崇拝、モダニズムの拒絶、非合理主義と〈行動のための行動〉の崇拝、混合主義と批判の拒絶、異質性の排除、個人あるいは社会の欲求不満からの発生、〈ナショナリズム〉の強調、敵の豊かさや力への屈辱感、「闘争のための生」の強調、エリート主義と弱者蔑視、英雄主義的な教育、〈マチズモ〉の強調、質的ポピュリズム、新言語(ニュースピーク)による思考統制、である。

例えば、非合理主義と〈行動のための行動〉の崇拝とは、ファシズムが基本的に非合理主義であるために、思考なき行動を賛美することを意味する。行動はそれ自体すばらしいものであり、それゆえ事前にいかなる反省もなしに実行されなければならないというわけである。思考は去勢の一形態とされる。したがって〈文化〉は、批判的態度と同一視される〈いかがわしいもの〉となる。知的世界に対する猜疑心は、いつも原ファシズム特有の徴候なのである。ファシスト幹部知識人たちは、伝統的諸価値を廃棄した自由主義インテリゲンツィアと近代文化を告発することに、ことさら精力を傾けていた。

また、〈ナショナリズム〉の強調とは、原ファシズムの特徴として、人びとに最大の共通項としてナショナリズムに訴えることを意味する。ファシストは、諸君にとって唯一の特権は、全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生まれたという事実だと語りかける。これが「ナショナリズム」の起源である。そしてこれに仇なす者は敵と目されることになる。原ファシズムは、その心性の根源に〈陰謀の妄想〉を抱え込んでいる。この陰謀を明るみに出す一番手っ取り早い方法は、〈外国人ぎらい〉の感情に訴えることである。だが、陰謀は内部からもめぐらされているはずである。そこで、内部にも外部にも同時に存在することの利点をもっているからという理由で、しばしばユダヤ人が最高の標的とされたわけである。

原ファシズムは「質的ポピュリズム」に根ざしている。民主主義の社会では、市民は個人の権利を享受するが、市民全体としては、多数意見に従うという量的観点からのみ政治的決着能力をもっている。原ファシズムにとって、個人は個人としての権利をもたない。質として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのである。指導者はかれらの通訳を装う。そして、委託権を失った市民は行動に出ることもなく、〈全体をあらわす一部〉として駆り出され、民衆の役割を演じるだけである。こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなる。現代では、それがインターネットによる質的ポピュリズムに変貌しているのは言うまでもない、とエーコは指摘する。

気をつけなければならないのは、原ファシズムは、いまでも私たちのまわりに、時にはなにげない装いで存在するということである。誰かが「アウシュヴィッツを再開したい!」と言っている場合にはまだ救いがある、とエーコはいう。もっと困難なことは、これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性があることである。私たちは、そうしたカムフラージュした原ファシズムを常に警戒し、世界のいたるところで新たな装いであらわれてくる原ファシズムの一つ一つを指弾することが必要である。そのとき、エーコが列挙した原ファシズムの典型的特徴は大きな手がかりとなるだろう。

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