歴史的な生活世界のもつ対話的内部構造への侵食としての「近代化」——ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』より
ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas、1929 - )は、ドイツの哲学者・社会哲学者・政治哲学者。フランクフルト学派第二世代に位置。公共性論や、コミュニケーション論の第一人者である。ドイツの哲学者ガダマーとの論争、フランスの哲学者デリダやリオタールとの論争、ドイツの社会学者ルーマンとの論争、アメリカ合衆国の哲学者ロールズとの論争でも有名である。
ハーバーマスは、フランクフルト学派第二世代に位置するが、第一世代の批判理論を承継しつつも、これを批判し、彼らによって生に従属する道具的理性として貶められた理性の復権をめざす。ハーバーマスは、『公共性(圏)の構造転換』(1962年)において、公共圏は、言論や出版の自由を得て自由に討論することにより政治的に参加することができた18世紀の市民社会においては、専制政治を行う国家の権力による「封建化」に対抗して家族や職場等の私生活の領域を解放する仲裁役として理想的に機能したが、19世紀後半に現れた大手企業やメディアが国家を支配する高度資本化による大量消費社会においては、公共圏が「再封建化」されるという構造転換があったと主張する。
ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』(1981年)では、20世紀において再封建化が進み衰退した公共圏の理想的な姿を取り戻すためには、人と人が相互の了解を追求・達成するコミュニケーション行為によって人を理解し、普遍的な社会批判の根拠を成し、より民主的な社会伝達や交流を可能にする、と主張した。マックス・ヴェーバーによれば、近代の合理化の進展につれ、それ自体が自己目的化し、本来人間のための合理化が逆に人間を「鉄の檻」のように包囲し、規定するという逆説的な状況が生まれた。彼の近代合理主義論を承継したマルクスやホルクハイマー、アドルノらフランクフルト学派第一世代は、社会の合理化を目的合理性のみととらえたところに過ちがあり、このようなシステム合理化のみならず、それと並行しておこった生活世界の合理化に着目すれば、近代的な理性を復権させることができるとする。
冒頭の引用は、1980年9月のハーバーマスがフランクフルト市のアドルノ賞を授与された際の記念講演『近代 未完のプロジェクト』からの抜粋である。翌年に発刊される『コミュニケーション的行為の理論』で中心となる「対話的合理性(communicative rationality)」の考えが、この講演でも重要概念としてあらわれている。
ハーバーマスは、西側の先進社会に見られるさまざまな危機現象の根は、文化と社会の乖離にあるとする社会学者で新保守主義者のダニエル・ベルの考えを紹介する。ベルによれば、モダニズムこそが大いなる誘惑者であり、際限なき自己実現という原理、純粋な自己経験への熱望、過敏なる感性という主観主義をはびこらせている。これは、文化のもつモダニズムこそは、経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵対心をあおるものだというマックス・ヴェーバーの主張とも重なるものである。彼は、プロテスタント的倫理の崩壊という現象の責任を、「反抗的文化」(adversary culture)なるものに押し付けていた。
しかし、そうした新保守主義者たちの批判の矛先はすこし見当違いであるとハーバーマスは批判する。彼ら新保守主義者たちは、経済と社会の資本主義的近代化が進んだ結果として生じたさまざまな難問の責任を、文化的モダニティに押しつけているというのだ。彼らの不快感を生み出しているのは、もっとずっと根が深く、社会の近代化そのものに対する反発に由来しているという。ハーバーマスによれば、その不快感は、社会の近代化が、経済成長や国家による活動のもつ強制力に促されて、「歴史的な生活世界のもつ対話的な内部構造」、すなわち「対話的合理性」の領域に侵入してきたことから起こっている。
ハーバーマスがいう「経済的および行政的合理性にのっとった一面的な近代化」という現象は、たとえばグローバリゼーションが進んだ現在の私たちの生活をも言い当てているように思える。これは大いなる「社会の近代化」プロセスの一端なのだ。そして、私たちがそれに対して不快感を感じるとき、その底には、「歴史的な生活世界がもつ対話的な内部構造」が存在する。このハーバーマスの「対話的合理性」の理論は、『コミュニケーション的行為の理論』でより精緻に展開されることになる。
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