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神はサイコロをふるのか?―量子力学のコペンハーゲン解釈の現在

では、何が実在するのだろう?パイロット波だろうか?多世界だろうか?自発的収縮だろうか?量子力学の解釈としては、どれが正しいのだろう?私にはわからない。どの解釈にも批判者はおり(だが、基本的には、コペンハーゲン解釈ではない解釈の提唱者はほぼ全員、数あるもののなかでもコペンハーゲン解釈が最悪だという点ではたいてい一致する)、どういうわけかはわからないが、量子力学の数学に関係のある何かが、世界のなかで起こっている。

アダム・ベッカー『実在とは何か―量子力学に残された究極の問い』吉田三知世訳, 筑摩書房, 2021. p.403

量子力学の話である。遠い話のように思えるかもしれないが、量子力学の成果は私たちの身の回りにあふれている。太陽光パネルやPC、スマートフォンの半導体の原理は量子力学に基づいている。また量子コンピュータも実際に開発されている。「量子重ね合わせ」や「量子もつれ」といった量子力学の現象を利用して並列計算を実現するコンピュータである。

しかし電子や光子といった量子は、私たちから見ると不思議な振る舞いをする。20世紀初期にアインシュタインが、ミクロ世界では「光は波動であるが粒子でもある」ことを示し、ノーベル物理学賞を受賞。さらにその後、「電子は粒子であるが波動でもある」ことが示された。この2つを合わせて「粒子・波動の二重性」と呼び、量子力学研究の基礎となった。

デンマークの物理学者ニールス・ボーアは、電子が粒子でもあり波動でもあるという謎めいた性質について、「電子は、観測しなければ波動として存在し、粒子としては存在しない」と説明した。ボーアはさらに、「観測すると波動が一点に収縮し、そこに粒子として出現する」と主張(波動関数の収縮)。電子がどの場所に出現するかは確率で決まり、予測できないとした。この解釈は「量子力学のコペンハーゲン解釈」と呼ばれる。

しかしアインシュタインは、観測する前の電子については何も知り得えないとしたボーアの解釈を「反実在論」と指摘。知ることを断念する反実在論(不可知論)は科学の原則に反すると批判し、電子が常に存在している実在論的な真の理論を作るべきだと主張した。アインシュタインはボーアへあてた手紙の中で「神はサイコロをふらない(Der Alte würfelt nicht)」と書いた。

一般的には、このアインシュタイン・ボーア論争は、ボーアが勝利したと考えられている。そして量子力学のコペンハーゲン解釈は多くの科学者が受け入れているとも言われるが、本書『実在とは何か―量子力学に残された究極の問い』はそれを覆す内容となっている。アインシュタインのほうが正しい(つまり、量子力学を実在論的に解釈すべきである)と考える物理学者は多く存在し、彼らの解釈を紹介する。その中の一つがアメリカの物理学者ヒュー・エヴェレットの「多世界解釈」である。(ちなみにエヴェレットは当時、プリンストン大学の大学院生であったが、多世界解釈が当時物理学の世界でほとんど受け入れられないことに失望し、博士号取得後は大学には生涯戻らず、物理学の研究を再開することもなかった。)

多世界解釈では、この世界以外に多くの世界、つまり多世界が存在すると考える。その上で、電子を観測する前の世界は、観測によって異なった場所に電子が出現するそれぞれの世界が、重ね合わされた状態にあると仮定する。それを観測すると重ね合わせが解消し、多くの世界に分離。観測者はいずれかの世界で、出現した電子を見いだすと考える。ただし、電子の現れる場所は確率で決まり、予測できない。つまり、観測前にも電子が各世界で実在するという実在論を確保しつつ、コペンハーゲン解釈と同じ観測結果が得られる。多世界解釈は荒唐無稽な考えではない。実際に、社会に大きな変革をもたらすと期待される量子コンピュータの原理は、多世界解釈を支持するエヴェレットの発想から生まれたものなのだ。

本書を読むと、物理学というハードサイエンスの最先端においても、「実在とは何か」という哲学の分野での大きな問い(実在論/存在論)がいまだに大きな難問として立ちはだかっていることに気付かされる。そして著者のアダム・ベッカー氏も何が正しい答えなのか「私にはわからない」と正直に述べている。いつか、私たちはこの問題を正しく理解できる日が来るのだろうか。私は物理学については素人であるが、知を愛する者の一人としてアインシュタインの意見に賛同したい。つまり、知ることを断念する不可知論で私たちは安心することはできない。


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