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仮想世界マトリックスで考える唯識論——「唯識二十論」を読む

……目ざめないかぎり、人は夢で見た対象が実際には存在しないということを悟らない。
まさしくこのように、世間の人々は、(実在しない)虚偽な表象をくり返すことによってしみ込んだ、潜在余力(熏習)の眠りに深く陥り、夢の中でと同じように、実在しない対象を見ながらも、まだ目ざめていないために、真実のままにその(対象の)実在しないことを悟らないのである。
けれども、その(潜在余力と)対抗するもの、すなわち、表象をもたない、超世間的な知識を得て、ひとたび目ざめたときには、その(超世間的知識に)続いて得られる清浄(しょうじょう)な世間的な知識があらわれ出るために、真実に従って、対象の存在しないことを悟るのである。その関係は(夢と目ざめとの場合と)同じである。

『世界の名著2 大乗仏典』長尾雅人編, 中央公論社, 1967. p.442.(「二十詩篇の唯識論(唯識二十論)」より)

「唯識二十論(二十詩篇の唯識論)」は、世親(=ヴァスバンドゥ)によって造られた、唯識の主要な論書である。世親(せしん)は、インド仏教瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派の僧であり、4世紀頃の人である。唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。

「唯識二十論」は、仏教以外の学派や部派仏教や他の大乗仏教の立場から、唯識説に対する批判や疑問に答える形で、唯識説を明らかにしたものである。唯識説の根本は「諸法(すべての存在現象)は識にほかならない」という考え方である。つまり、すべての存在=世界は、自分の心(識)が作り出したものにすぎない。ただ心(識)があるだけ、という意味で「唯識論」という。

この世の存在は無常なものであり、実体はないとする「空」の思想に近い考え方であるが、その存在現象は、自分の心が作り出した表象であり、なんらかの事物が外界にあるのではないとする考え方まで掘り下げているのが唯識論の特徴である。その状態が「夢を見ている状態」に例えられる。夢を見ているときは、さまざまな色形があらわれる。しかし、その色形は外界に実体として存在していなくても、自分の心の中にある種子が特殊な状態に変化してあらわれていると説く。その虚偽の表象がくり返しあらわれることによって、私たちはあたかもそれが実体として存在しているかのように錯覚する。それが「実在しない対象を見ながらも、まだ目ざめていないために、真実のままにその(対象の)実在しないことを悟らない」ということの意味である。

では、私たちはどうしたら、私たちの目の前の表象がかりそめのものであり、実体がないものと知ることができるのであろうか。それは、夢から覚めることである。ひとたび目ざめれば、それを知ることができる。逆に言うと、目ざめない限り知ることはできないのである。そのことを「ひとたび目ざめたときには、その(超世間的知識に)続いて得られる清浄な世間的な知識があらわれ出るために、真実に従って、対象の存在しないことを悟る」と言っている。

これは例えるならば、映画「マトリックス」の世界である。マトリックスの近未来の世界では、人々は眠らされ、生まれてから死ぬまで夢を見ているような状態にある。そのとき、私たちが経験している世界はバーチャルな世界であり、マトリックスでコードされた仮想現実である。しかし、目ざめない限り、それが仮想現実、つまり外界に実体をもたない表象だけの世界であることを知ることはできない。しかし、その世界から抜け出ることもできる。モーフィアスに渡された赤いカプセルを飲み、現実に目覚めることを選択することである。唯識でいう「超世間的な知識」とは、マトリックスでいう「赤いカプセル」である。ひとたびそれを得ることができれば、人は目覚めるのである。


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