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他者なき、否定性なき、外との弁証法的な統合なきベルクソンの哲学——檜垣立哉『ベルクソンの哲学』より

他者なき、否定性なき、そして外との弁証法的な統合もなき哲学のアイデア。直接的な現れのリアルさを肯定し、潜在性という論理によって実在の総体を回復させるような存在論的思考。これが現在的な文脈におけるベルクソンの思考の独自性を示すものだろう。ベルクソンの語る差異とは、否定とはいっさい無縁な「内的差異」である。ベルクソン―ドゥルーズにおいて差異とは、他性も否定性も介在させることなく持続の充溢をポジティヴなままに把握させるための概念装置なのである。
ベルクソンの議論における他者の欠落や否定性や媒介性の不在は、従来ベルクソン哲学の弱点のようにみなされてきた。それは素朴なオプティミストという、ベルクソンの評価を補強するような役割を演じもしただろう。しかしこうした見方は、ベルクソンの内在の記述をたんなる個人の心理的内面の素描とみなしてしまう無理解や誤解に由来するものでしかない。ベルクソンの述べる内在は、あくまでも実在への内在である。その試みとはこのような内在を徹底させ、その充溢のみを受けとめつづけることにある。だからその記述とは、従来の意味での(主観と客観に重なっていく)内部と外部の区分を無効化させながら、外も他者もあるいは死の影もないような直接与えられる実在の充溢においてはたされる。ベルクソンの思考とは、超越論的領域を介在しない哲学であるのみならず、超越論的領域の外部や他性によって超越論性の不可能性を論じる思考とも異なったものである。その肯定性の絶対的な強度こそが、ベルクソンの思考にその思想史的な特異性と独自の輝きを与えるだろう。

檜垣立哉『ベルクソンの哲学——生成する実在の肯定』講談社学術文庫, 2022. p.46-47.

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)は、フランスの哲学者。パリに生まれ、父はユダヤ系ポーランド人の音楽家、母はイギリス人だった。1896年『物質と記憶』を発表、1900年コレージュ・ド・フランス教授に就任。1907年『創造的進化』、1919年『精神のエネルギー』、1922年『持続と同時性』を発表。1928年、ノーベル文学賞を受賞。1941年に占領下のパリにて逝去した。本書『ベルクソンの哲学——生成する実在の肯定』は、哲学者の檜垣立哉氏によるベルクソン哲学の解説書である。以下、その本の内容にそってベルクソン哲学の簡単な導入とする。しかし、具体的に「内在」「差異」「持続」といった概念が何を意味するかは説明していないので、是非本書をお読みいただきたい。

ベルクソンの哲学とは、「実在」をあるがままに記述する試みである。実在のリアルな立ち現れを、いっさいに媒介に頼ることなく描くこと。事象から示されるのではない超越的な説明をもちださず、直接与えられるリアリティーにしがたうこと。真の経験論あるいはプラトニスムの転倒を標榜する試みといえる。ベルクソンは直観によって、あるいは対象と自己との一致によってこれらの記述をはたしていく。こうした仕方で見出される事象とは、たえず変化し新たな質を生み出しつづける流れ、すなわち本質的に時間的な実在である。そのような実在は、「持続(durée)」と名づけられることになる。ベルクソンは持続である流れから離れることなく、そこに内在的な仕方で入り込むことにより、つねに新たで、それゆえ独自な実在の記述をなしていくのである。

今日に至るまで、ベルクソンの評価は一種の疑念にもとりまかれている。それは、実在に内在することから哲学をはじめるベルクソンの方法は、哲学の方法論という観点から考えれば難点をもつものではないかという疑念である。一時は、ベルクソンは「生の哲学」の提唱者としてジャーナリスティックにとりあげられもしたが、とりわけフランスでは、19世紀以来のスピリチュアリスムの伝統を継ぐ思想というみなされ方も強く、結局は人間の精神的内面について、あるいは生命という自然について素朴に語るだけの哲学と評価されもした。「持続」という、ベルクソンにとっては存在論的な実在概念も、たんなる心理学的記述の延長と考えられてしまう。

しかしこれらの見方は、ジル・ドゥルーズの出現によって変更を余儀なくされた。ドゥルーズはほとんど唯一といってもよいベルクソンの継承者である。ドゥルーズはベルクソンのテクストを徹底的に解読することから、新たな存在論の着想とそれを具現化する方法論とを引き出してくるのである。こうした方法論は、さしあたり「差異」というポストモダンの思考にとって中心的な概念を軸に展開された。ドゥルーズは、ベルクソンの「持続」の概念を存在論的に位置付け、「差異」や「反復」という概念装置を使って、ベルクソンの哲学を捉えなおしたのである

ドゥルーズはベルクソンの思考に、現象学とは別種の系譜に属する存在論の可能性をみてとる。そもそもフッサールにはじまる現象学とは、超越論的な還元の方法を軸にした視線の変更の徹底的な要請だった。現象学とベルクソンの哲学とは、近代主義的な謬見を排して、純粋な現れの場面に立ち返るという観点からは共通する指向をもちあわせているようにみえる。しかし、ドゥルーズによれば、ベルクソンは超越論的領域への還元とは違った仕方で直接的な現れを確保し、それを哲学の言葉に展開したというのである。「差異」という方法を通過する存在論の思考。これがドゥルーズが解読するベルクソン哲学の姿であった。

ドゥルーズ自身がその一翼をになうポストモダン思想の中ではベルクソンはどう位置付けられるのか。ここでは二つの流れが検討される。一つは、はじめから現象学とは別の地盤に依拠しつつ新たに哲学を語りだす潮流としてのベルクソンやドゥルーズである。もう一つは、フッサールやハイデガーの現象学に立ち戻り、その原理的な批判を徹底することによって従来とは異なる地平を開いたデリダやレヴィナスの立場である。デリダやレヴィナスは、フッサールによる超越論的問題の設定そのものを問題にした。若きデリダは、超越論的なものと経験的なものとの決定不可能性を論じながら、現前というフッサールが述べる根源的な経験の不在を明らかにした。レヴィナスはフッサールの論じる超越論的主観性の領域には回収されない「他者の他者性」という問題を重視し、超越論的設定に依存しない倫理学を第一哲学として顕揚した。

デリダやレヴィナスの思考と、ベルクソン―ドゥルーズのそれとの違いとは「内在」において際立つ。ベルクソンもドゥルーズも超越論的領域によることなく、しかしある種の直接性において実在を捉えることを肯定する。だが、デリダやレヴィナスの思考の方向は、これとは対照的である。彼らにとって、実在の直接性やそこへの内在は、もとより不可能なものであった。彼らが見いだすものはすでに痕跡(trace)であり、語るものはいつも古き名(vieux nom)なのである。ところが、ベルクソン―ドゥルーズにおいては、実在は痕跡ではない。それは新たなるものの創造であり、その質の産出である。超越論的領域をもたず内在を徹底するベルクソンの哲学とは、同時に他性も否定性も外部ももたない思考として際立たせられるのである。


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