「存在」がもたらす吐き気、ねばねばしたもの——サルトルの「偶然性への恐怖」とレヴィナスの「イリヤ」
ジャン=ポール・サルトルとエマニュエル・レヴィナスには一見して共通点はない。実存主義哲学と現象学は、同じ親(フッサール現象学)をもつ兄弟のような存在とはいえ、実存主義哲学者と現象学哲学者は完全に重なるものではない。レヴィナスはフッサールとハイデガーに直接学び、その後独自の哲学(「イリヤ」と「他者」の哲学)をうちたてた。一方、サルトルは一度だけハイデガーに会ったことはあるものの、フッサールやハイデガーに直接教わった経験はない。サルトルは彼らの著作を読むことでインスパイアされ、独自の実存主義哲学(「自由」の哲学)を確立した。しかし、サルトルの著書のタイトル『存在と無』は、明らかにハイデガーの『存在と時間』へのオマージュとなっている。
サルトルの著書で特徴的なものが「生のもの」「べたべたしたもの」「ぬるぬるしたもの」への嫌悪感である。サルトルの小説『嘔吐』は、彼の現象学的な哲学を小説という形で表現したものだ。1938年に発表されたセミ・フィクション作品『糧』でも同様の描写が出てくる。語り手は、ひどく暑い夏にナポリの街を歩きながらぞっとする光景を目にする。語り手は吐き気に襲われるが、同時にあるひらめきを得る。この世界の出来事はどれも必然性がない、ということだ。すべては「偶然」によるものであり、もしかしたらまったく違うことが起きていたかもしれない。この現実の「偶然性」からくるめまいのような感覚は、その後のサルトルにとって主要なテーマとなる。
小説『嘔吐』の主人公ロカンタンも、同様の経験をする。ロカンタンは、ある港町で退屈な毎日を過ごしている。彼自身もあてどなく街をさまよっているだけであり、街の人々もブルジョワ的な日常の雑事をこなしている。「人生はなんの特徴もないパン生地のようなもので、その形は必然ではなく偶然によってのみ決まる」。そんな思いが、何をしていても波のように押し寄せてきて、そのたびにロカンタンは吐き気に襲われる。吐き気が物そのものに、そしてこの世界に取り憑いているような気分になるのだ。そしてついに、公園のマロニエの樹皮が「煮えた革」に見えたとき、再び吐き気を覚え、そんなふうに不快な気分になるのは木のせいだけではなく、木の「存在」のせいなのだと悟る。その木は、不可解にそして不条理にただそこに存在し、意味をなすことも身のほどをわきまえることも拒絶している。偶然性とはそういうことだ。行き当たりばったりで途方もない物体の「このもの性(thisness)」。これをサルトルは「事実性」と呼ぶ。
サルトルは自分自身の経験をロカンタンの強迫観念として描き出している。つまり「生のもの」「べたべたしたもの」「ぬるぬるしたもの」への嫌悪感である。1943年に出版された『存在と無』においても、「ねばつき」や「ねばねばしたもの」が多く出てくる。このねばねばした存在というのも、存在の「偶然性」への恐怖をサルトル流に表現したものである。それが彼のいう「事実性」であり、われわれを状況へと引き込んで、自由を奪ってしまうあらゆるものを呼び起こすのである。
そして、この存在の偶然性への不快感や恐怖感は、レヴィナスの哲学においても語られている。サルトルとレヴィナスがお互いの著作を読んでいたかどうかははっきりしない。おそらく二人は同じ師(フッサールやハイデガー)から発展させた独自の哲学の中で、同様の思想に至ったのではないだろうか。レヴィナスは、不眠や吐き気がもたらす感覚、とくに、何かのせいで落ち込み、囚われの身になったような気分を描写している。その「何か」とは、自分にのしかかる重く硬く得体の知れない「存在」そのものである。これをレヴィナスは「イリヤ(il y a)」と呼ぶ。フランス語で「〜がある(英語でいうと"there is ~"という表現)」という意味である。存在そのものがもたらす不快感。それは「あたかも空白が満たされ、沈黙がざわめいているような」感じであり、完全な充満のなかにいて、考える余地も内側の隙間も残されていない悪夢のような感じである。
サルトルにとって、この存在の事実性・偶然性がもたらす吐き気をもたらすような状態から抜け出るためには、「自由」を自ら責任をもってひきうける行為の哲学へと自らの哲学を発展させていった。一方、レヴィナスはこの「存在そのもの」がもたらす不安を根源的に見つめていき、自己の存在における他者の他者性の重要性、つまり〈顔〉の哲学へと自らの思想を発展させていったことになる。
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