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語りの力

今日、講談師の神田山緑さんの講談「八百屋お七」を聴いた。

講談を生で聴いたのは初めてである。

圧巻であった。

何故にこんなにも聴き手の心を引き込むのであろう。

何故にこんなにも聴くものの心を鷲掴みにするのであろう。

そのときの私は少年のように目を輝かせ、食い入るように山緑さんを見ていた。山緑さんの顔の上に次第にお七と佐兵衛の顔が重なって見え、背景に江戸の町をまざまざと見たのである。

そして、佐兵衛に恋い焦がれるお七の気持ちの中に、私は入り込んでいた。

狂おしい心持ち、いや文字通り狂ってしまったお七が、江戸の町に火をつける、そのときのお七の息遣いを感じ、お七の一心不乱の眼差しをそこに見た。

気づいたら私の頬を涙が伝っていた。

話が終わったとき、周りがぱっと明るくなり、今現在へと戻ってきたようであった。

人の物語(ストーリー)は、いろんな形で物語られる。

文字でそれを読むことも出来れば、朗読されたり、講談として物語られたりする。演劇や映画もその一種だろう。

その中でも講談は、まるで、登場人物を目の前に現前させるかのような表現力を持つ。しかし舞台も衣装も特別な道具は使わずに、純粋に「語り」によってなのである。

人の「語り」にはかくも力がある。
しかし、全ての語りがそうではない。

その差は何なのだろうか。

私は、そこに何かとても重要なものが潜んでいる気がしてならない。

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