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15対50問題——メリトクラシー(能力主義)が分断する社会

グッドハート:私が「15対50問題」と呼ぶものです。30年前、フランスやイギリスでは、普通の家庭、普通の町の出身者はほとんど大学には行きませんでした。おそらく大学に行ったのは15%ほどです。それは深刻な問題ではなく、人びとは事務所や工場で働きはじめ、生活します。
しかし人口のほぼ半数が大学で勉強するようになると、エリート養成大学はいわずもがなですが、事態はまったく異なります。もしそのグループに入らなければ、おそらく自分を落伍者と感じるでしょう。(中略)
以前は、中流階級のなかにも小さなエリートが存在していました。いくつもの小さな梯子があり、ある意味で価値を測る方法がいくつもあったのです。今は「知的階級」に到達するという唯一の目的を、すべてが吸収されてしまっています。そして、それとは別の領域で才能を発揮する人びとに対して、強い排除の感覚が生まれます。

クーリエ・ジャポン編『不安に克つ思考:賢人たちの処方箋』講談社現代新書, 2021. p.121.

語っているのは1956年英国生まれのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハート(David Goodhart)。現代社会や世界情勢などに鋭く切り込むことで定評のある、イギリスの総合評論誌『プロスペクト』誌の共同創刊編集者である。このインタビューにおいて彼は、現代の「メリトクラシー」社会を批判する。

「メリトクラシー(能力主義)」という言葉を使ったのは、イギリスの社会学者マイケル・ヤング(Michael Young, 1915 - 2002)が最初である。現代では「能力主義」という言葉を美徳に結びつける傾向にあるが、ヤングが最初にこの言葉を用いたときは批判的に用いていたという。つまり、ヤングは「知性」という新たな階級による支配が始まるのではないか、知性がそれ以外の人間の長所をないがしろにするのではないかと懸念していた。

そして現代社会はある意味、ヤングが懸念した状態になっているという。つまり、知性(知的能力)による新たな階級社会とでもいうべき格差が生まれている。グッドハートはこの現象を「15対50問題」と呼ぶ。大学進学率が15%程度だった時代には、知的エリート層もいるが、それ以外の人も多くいて多様性が存在していた。しかし、大学に50%の人が行くようになった現代では、競争が激化し、知的に成功することだけが社会の目標となり、むしろ多様性が失われてしまう。そして、トップ大学に行ける若者は知的エリート層の子供たちが多くなり、知的階級が再生産されるのである。

グッドハートは、この現象の最大の問題は、知的領域以外で才能を発揮する人びとに対して強い排除の感覚が生まれることだと言う。彼は能力主義自体を否定しているわけではない。職能を要するいくつかの職業については能力主義的な選抜は必要だと述べる。グッドハートは、能力主義を知的能力だけではなく、もっと多様な人間の能力に拡張するべきだと考えている。例えば、他人のケアをするための感情的資質などである。これをグッドハートは、「頭」(知性)だけでなく「手」(手仕事)や「心」(ケア労働)の能力も評価すべきだと表現する。「手」と「心」にも尊厳を、というわけだ。

メリトクラシー至上主義の社会においても、かすかな希望はある。コロナ禍以降特に「エッセンシャルワーカー」が重要だと社会も気づき始めたことである。エッセンシャルワーカーの多くは、介護や福祉、保育、教育、公共交通機関に従事する人びと、つまり「手」と「心」の仕事をする人びとだ。今後、この流れがさらに大きくなるかどうかは、私たち社会を構成する一人ひとりが「能力」という考えを拡張し、手仕事やケア労働にも価値と尊厳を認めるようになるかどうかにかかっているだろう。


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