自由の本質とは「状態」ではなく「感度」である——アーレントによる自由の定義
本書『「自由」の危機 ――息苦しさの正体』は、2020年9月の政府による日本学術会議会員の任命拒否問題に端を発して組まれた特集である。筆者には、姜尚中、佐藤学、上野千鶴子、小熊英二、高橋哲哉、苫野一徳、内田樹などが名前を連ねる。「学問の自由」、ひいては私たちの生活における「自由」を守るために、さまざまな文筆家やジャーナリストが筆をとっている。
引用したのは哲学者・教育学者の苫野一徳氏の文章である。苫野氏はルソー、ヘーゲル、アーレントといった哲学者たちがいかに「自由」を論じてきたかという観点から、まずは「自由」の本質を説く。そして、そして私たちが本質的に自由に生きるためには、「自由の相互承認」に基づく社会を築くことが大事であり、本来批判されるべきは「自由」の価値それ自体ではなく、人びとの「自由」を奪うこの苛烈な自由競争社会のあり方であるはずだと強調する。そうした「自由な社会」を作り出すには、各人がその意志を言論によって表明し続けなければならない。多種多様な関心を持った人びとが、互いに対話を重ねることで作り出していくべきものだという。
苫野氏の「自由」の本質論は、近代哲学の王道にのっとったものである。まずはヘーゲルの「自由」論からおさらいする。ヘーゲルは、人類の数万年におよぶ戦争の歴史は、つまるところ「自由」をめぐる戦いであったと説く。そして「自由」こそは人間にとって最上の価値であるという。なぜなら、人間精神の本質、言い換えれば人間的欲望の本質は「自由」であるからである。人間は動物と違い、自らの欲望を自覚しうる存在である。さらには人間は複数の複雑な欲望をもつ。それらが互いに衝突することもある。複数性を持つ人間的欲望は、まさにそれ自体が、私たちを規定する(制限する)決定的な規定性なのである。
つまり「自由」の本質について、次のように言うことができる。自由とは、私たちを規定する(制限する)欲望を自覚しつつも、なおこの規定性を何らかの仕方で克服し、そこから解放され、生きたいように生きられること、と。つまりヘーゲル的定義では、自由の本質とは「諸規定性における選択・決定可能性の感度」ということができる。
さらには、20世紀の哲学者ハンナ・アーレントの表現を借りるなら、「自由」とは、「我欲する」と「我なしうる」との一致の感度が訪れるとき、あるいはその可能性の感度が訪れるときに確信するものである、ということができる(『過去と未来の間——政治思想への八試論』第4章「自由とは何か」, みすず書房, 1994)。ここでは、自由が「状態」ではなく「感度」として定義されていることが重要である。「感度」とは、感じることとその度合いである。自由を「状態」で定義することはできない。なぜなら、どのような状態が「自由」であると決定するかは人それぞれであるからだ。むしろ、人は「ああ、いま自分は自由だ」という感度を得られたときに、それを「自由」であると確信する。
例えば、ある人は「私は誰かに支配されて生きたい」と思う人がいたとしても、それは人間的欲望の本質が「自由」であることの反証にはならない。なぜなら、その人は、そのような仕方で「生きたいように生きたい」と欲しているからだ。一見不自由な「状態」においてこそ、自由の「感度」を得られるものと考えているからである。
教育学者でもある苫野氏は、この「自由の相互承認」に基づいた社会を築くために、教育のあり方を変えるべくさまざまな試みをしている。「自分たちの社会は自分たちで作る」が市民社会の鉄則であるならば、学校も「自分たちの学校は自分たちで作る」をたっぷりと経験できる場である必要がある。そのための研究や実践を行なっているという。また、そうした学びの場が、年齢や世代、障がいのあるなしや文化の違いを超えて、多様性がもっとごちゃまぜになって学び合える「ごちゃまぜのラーニングセンター」へ発展させていくことを目指しているという。今後の苫野氏の研究と実践に注目したい。