「ドライブ・マイ・カー」から学ぶ家庭医としてのスタンス

村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』を読んだ。

小説を読むという体験は、密やかな楽しみだ。

小説あるいは文学というものは、一人称である「私」にとって人生の出来事はどういう意味を持つのかということを描いている。その一人称の世界、一般論の私ではなく、一人称の私にとっての世界を、読者である私も密やかに、共有するのである。

主人公の家福は、死んでしまった妻の過去の行動が理解できず苦しんでいる。

家福は首を振った。「いや、理解はできなかったな。彼が持ち合わせていて、僕が持ち合わせていないものは、いくつかあったと思う。というかたぶん、たくさんあったんだろうと思う。でもそのうちのどれが彼女の気持ちを捉えたのか、そこまではわからない。僕らはそんな細かいピンポイントのレベルで行動しているわけじゃないから。人と人とが関わり合うというのは、とくに男と女が関わり合うというのは、なんていうか、もっと全体的な問題なんだ。もっと曖昧で、もっと身勝手で、もっと切ないことだ」

この部分にグッときた。

人と人との関わり、特に大事な人との関係というのは、そんなピンポイントのことではない。全体的で、もっと曖昧で、もっと身勝手で、もっと切ないことなのだ。

家庭医(総合診療医)としての患者へのアプローチにBPSモデルというものがある。生物心理社会モデルと呼ばれる枠組みだが、家庭医として患者をみるときの基本的なスタンスと言える。家庭医が患者をケアするとき、生物医学的側面に合わせて、心理的側面、社会的側面も捉え、それを統合しながら全人的にアプローチする。そのとき、普段は臓器・細胞レベルで考えていた視点はぐっとズームアウトされ、患者の周辺やコンテキストが見えてくる。

人間とは臓器の集合体ではなく、ましてや細胞・遺伝子といったピンポイントのレベルで語れる存在ではないんだ。心理社会的状況に囲まれ、環境や社会と相互作用している中で存在している。もっと全体的で、もっと曖昧な存在なんだ。BPSモデルとは、そういうことなのではないか。

しかし、ことはそう単純ではない。

小説の主人公・家福は、自分と妻との関係はピンポイントのレベルではない、そう言いながらも、ピンポイントの事情にこだわり続けてしまう。妻のとった行動のディテールについて、こだわり続けてしまうのである。

この人間存在の自己矛盾、わりきれなさ、不合理性といったところが、「もっと身勝手で、もっと切ないことなんだ」という言葉に表れているのかもしれない。理屈で割り切れないものなのだ。説明できない行動というものを人間はとってしまうのだ。そしてそれは、ときに身勝手で、曖昧で、だからこそ切ないものなのだ。

家庭医というのもある意味、自己矛盾を抱えた存在なのかもしれない。BPSモデルによって全体を見ようとすればするほど、ディテールにも目がいってしまう。

嚥下障害で食事ができなくなった高齢患者に胃ろうを作るのかどうか、身寄りのない独居高齢者の慢性疾患を誰が支えるのか、認知症を患った糖尿病患者をどう治療したらよいのか、日々私たちが出会う問題である。そのとき、個々の問題のディテール(疾患の種類や程度、患者の心理状態)を見ていきながら、問題の全体像(周囲状況を踏まえた問題の構造)をも家庭医は見ようとする。これこそがBPSモデルなのだが、現場ではそうスッキリ解決できることは少なく、日々悩み続けているのである。



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