デリダの脱構築と第三項としてのパルマコン——千葉雅也氏『現代思想入門』を読む
千葉雅也(ちば まさや、1978 - )は、日本の哲学者・小説家。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。研究分野は、哲学および表象文化論。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。学位は、博士(学術)。フランス現代思想と、美術・文学・ファッションの批評を連関させて行う。著作に『動きすぎてはいけない』(2013年)、『別のしかたでーツイッター哲学』(2014年)、『勉強の哲学』(2017年)、『意味がない無意味』(2018年)など。
本書『現代思想入門』は、現代思想、特にポスト構造主義の哲学の代表者であるジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの3人を取り上げ、「脱構築」の概念を鍵に現代思想を紐解く入門書である。
いまなぜ現代思想なのか。現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで捉えられるようになるという。世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがある。それを尊重する必要があるという価値観あるいは倫理をまず千葉氏は提示する。また現代は「きちんとする」方向へいろんな改革が進んでいる社会でもある。「秩序化」といってもいいだろう。それにより生活がより窮屈になっているのではないか。現代はだらしないもの、つまり「逸脱」は取り締まられ、ルール通りにきれいに社会が動くようにしたいという圧が強い社会である。コンプライアンス社会もそれを反映している。そうした秩序化を重視する社会の中で、逸脱や複雑なものは無視されていく傾向にあるのではないか。物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないか。そこで必要になるのが現代思想だ、と千葉氏は強調する。
現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと千葉氏は考える。秩序をつくる思想はそれはそれで必要だということを千葉氏も否定しない。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいという。
現代思想の基本スタンスは二項対立を崩していくところがあり、よくある批判として「現代思想(ポスト構造主義)では相対主義に陥ってしまうのではないか」というものがある。二項対立を脱構築することはたしかに相対主義的な側面がある。しかしちゃんと理解すれば、「どんな主義主張でも好きに選んでOK」ということではない。そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があり、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在すると千葉氏はいう。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスである。
二項対立の「脱構築」を打ち出したのがジャック・デリダ(1930 -2004)である。デリダの議論は、何を考えるにせよ、思考すること全般に関わる。一種の思考術であり、だからいろいろなものに応用できる。二項対立においては、しばしば一方に優位性が置かれる。それを転倒していくのがデリダの発想である。脱構築は、英語では「ディコンストラクション(deconstruction)」、フランス語では「デコンストルクシオン(déconstruction)」という。
デリダにおいては「話し言葉」(または「声」)と「書かれたもの」という二項対立がすべての二項対立の根本に置かれる。「話し言葉」はフランス語で「パロール」、「書かれたもの」は「エクリチュール」という。パロール/エクリチュールという対立である。古代から、書かれたもの(エクリチュール)よりも実際に聞いた話(パロール)の方が真理の基準である、とする考え方がある。エクリチュールは、ひとつの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解釈や誤解を生み出していく。そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものとして捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えた。実際に目の前でしゃべっていても、本当にひとつの真理を言っているとは限らない。しゃべっていることにもエクリチュール性はあるのである。
人が何かを主張するときには、基本的にそこに含まれる二項対立を分析することが可能である。そして二項対立においては一方に優位性が置かれている。その発想をふまえて、マイナスの側に置かれているものをマイナスと捉えるのは本当に絶対だろうか?という疑問を向けるのが脱構築の発想である。脱構築の手続きは、①まず二項対立の正負の価値観を疑い、むしろ負の側に味方するような別の論理を考える、②対立する項が相互に依存し、どちらが優位でもない留保された状態を描き出す、③そのときに正でも負でもあるような二項対立の「決定不可能性」を担う第三の概念を使う(こともある)、というプロセスを踏む。
この第三項はプラトンが述べた「パルマコン(pharmakon)」と呼ぶこともできる。パルマコンとは古代ギリシア語で「薬」でもあり「毒」でもあるような両義性を持つものである。その原義は「薬」であり、たしかに薬は有効性と毒性の両義性を持つものである。デリダはこうした発想によって、本質的なもの/非本質的なものという二項対立も崩していく。「本質的=重要」とは根本的にどういう意味か。本質的とは「本来のもの」「本物」「オリジナル」あるいは「直接的なもの」という含意をもつ。非本質的なものは、ある基準点から離れていて間接的でしかない。ありありと目の前に本物があることを、哲学では「現前性」と呼ぶ。それに対して劣っているものは「再現前」という二項対立がある。パロールとエクリチュールも同様である。つまり、従来はエクリチュール(書かれたもの)は、パロール(話し言葉)に対して二次的であり、再現前であるから非本質的であるとされてきた。それを脱構築によって転倒するのがデリダの発想といえる。
千葉氏はデリダの発想を敷衍し、脱構築の倫理性に言及する。二項対立でマイナスとされる側は「他者」の側である。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するものとも言える。「自分が自分に最も近い状態である」という同一性を崩していき、脱構築の発想で外部(他者)の力に身を開いていくこと。「自分は変わらないんだ、このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、という考え方である。
たしかに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選ばなければならない。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったことへの忸怩たる思いが残るはずである。そしてまた、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとしたりする。すべての決断は何の未練もなく完了するということはなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者への配慮なのではないか。我々は決断を繰り返しながら、そうした未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要がある、と千葉氏は語るのである。
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