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近代社会の「鉄の檻」に「それでもなお」で立ち向かう——ウェーバーとニヒリズムの関係

そして三つめは法律と合理性に基づいた官僚制による統治です。ヘーゲルの弁証法的な思考様式ですが、ウェーバーは官僚制がある種の到達点だと見なしました。そして近代の本質は、抜けでることのできない≒ほかの選択肢がない「鉄の檻」だと述べます(中国の台頭や新興国の状況などを見るにつけても、実証的に妥当かといわれれば現在では疑問も残りますが、ウェーバーの思考パターンは示唆に富みます)。
ドイツの著名な哲学者カール・レヴィットや日本でいえば歴史学者山之内靖らによる後期ウェーバー研究は興味深い指摘を残しています。ウェーバーにおけるニーチェやニヒリズムの影響が見てとれるというのです。ウェーバーは、「鉄の檻」という概念を通して、われわれはもう近代の外に出られない、とはっきり述べているのです。
しかし、ウェーバー研究の知見の指摘はそこでとどまりません。できることがあるとすれば、「それでもなお」という力への意志を持つことであると述べます。どういうことでしょうか。それは自分たちの地平を自覚しようと務めることだとウェーバーはいいます。ポイントは「自覚できる」ではなく、「自覚しようと務める」という点です。
両者には大きな開きがあります。しかし、完全に理解することはできなくても、理解し続けようとすることはできる、それによってよりよい改善を加えていくことができるというわけです。

西田亮介『なぜ政治はわかりにくいのか——社会と民主主義をとらえなおす』春秋社, 2018. p.73-74.(太字強調は原著では傍点)

社会学者・西田亮介氏による著書『なぜ政治はわかりにくいのか——社会と民主主義をとらえなおす』からの引用。西田亮介氏は1983年生まれの社会学者。 日本大学危機管理学部・大学院危機管理学研究科教授。専門は公共政策、情報社会論。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員、北海道大学大学院公共政策学連携研究部附属公共政策学研究センター研究員などを歴任した。

本書は、「なぜ政治はかくもわかりにくいのか」をテーマに、われわれの社会は、政治に対して批判的な立場に立つための知識と道具立てをきちんと供給してこなかったのではないかという問いを掘り下げる。そして、われわれの社会はそもそも、政治や民主主義を語るときに共通の前提を持っているのか、「民主主義」という言葉は、「保守」や「リベラル」という言葉は、誰かが語るときと、あなたが意味するときに共通のものを指しているのか、というところを問う。

「保守」と「リベラル」が持つ本来の意味から西田氏は説きはじめる。
「保守」とは、イギリスの思想家エドマンド・バークを祖とする考え方である。バークは当時のフランス革命やナポレオンの台頭による社会の混乱に否定的な立場をとり、急進性と人間の理性、人智に対する懐疑主義をとった。彼が擁護するのは、長い歴史のなかで培われてきた歴史と慣習である。少しずつそれらを改良しながら社会を変えることを是とする立場、これが「保守」の考え方となる。
一方「リベラル」(リベラリズム:自由主義)とは、人の理性を信頼しようとする立場であり、個人の自律と自由、その前提となる「理性」を信頼、重視するものである。ファシズムの台頭やアウシュヴィッツを経た現代では、やはりそれらを乗り越え、頼ることができるのは理性と啓蒙、さらにそれらを擁護する環境としての寛容性ではないかと考える立場といえる。

さらに参考になるのは政治学者・社会学者のマックス・ウェーバーの支配(統治)の三類型である。統治の1つめの形は「伝統的支配」であり、2つめは「カリスマによる支配」である。3つめの形が「法律と合理性に基づいた官僚制による統治」である。ウェーバーはこの官僚制をある種の近代社会の到達点だと見なした。そしてこれを「鉄の檻」と表現し、近代の本質は抜け出ることのできない「鉄の檻」であると述べたわけである。ウェーバーは、われわれはもう「鉄の檻」である近代の外に出られないと断言したのだが、ここにはニーチェやニヒリズムの影響が見てとれると、歴史学者のカール・レヴィットや山之内靖は指摘する。

さらに状況をややこしくするのは、日本における「保守」と「リベラル」に、ある種のねじれが見られるからである、と西田氏は指摘する。日本では戦後長らく「保守と革新」という言い方がなされてきた。保守は与党を、革新は野党全般を指すというのが、伝統的な図式だった。しかし、社会学者・小熊英二氏が指摘するのは、もともと「民主」は保守陣営の看板で、「愛国」は革新陣営のスローガンだったというねじれである(現在では民主はリベラル陣営、愛国は保守陣営の看板であるからである)。戦後早い時期には、日本共産党と左派が「愛国」を主張し、「民主」はむしろ保守陣営が強調していた。戦後とくに日本共産党は「愛国のための反米」という論理を展開していた。一方、保守である自民党は基本的には親米路線をとってきた。時代を経るにつれて、リベラルは「愛国」のメッセージとの折り合いが悪くなり、むしろ市民や民主主義のほうに強調点を移してきた。日本共産党も、冷戦の崩壊や社会情勢の変化を受けて急進性を弱め、護憲や平和主義の主張を全面に押し出すようになった。一方、保守陣営である自民党においては、党是として自主憲法の制定を掲げておくものの、経済的発展を背景に改憲論議は棚上げされ、日本国憲法の擁護と日米安保堅持が基調とされてきた。旧安倍政権における「改憲」を全面に掲げる主張は、自民党内部にあっても保守本流とは異なる路線であったと言える。このように、かつての革新、つまり現代のリベラル陣営が「社会を保守していくこと」(憲法を守れ、九条を守れ)を主張しているというところにも、ねじれ現象を見てとることができる

ウェーバーの議論に戻ると、近代社会の本質として、そこから抜け出すことのできない「鉄の檻」があるのだが、私たちには何ができるのだろうか。ウェーバーは「それでもなお」という力への意志を持つことであると述べる。それは「自分たちの地平を自覚しようと務めること」であるとウェーバーは述べる。「自覚できる」ではなく「自覚しようと務める」ことであるという。両者には大きな開きがある。完全に理解はできなくとも、理解し続けようとすることは可能であり、それによってよりよい改善を加えていくことはできるという。ウェーバーの思想にはたしかにニヒリズムの影響が見てとれるし、ニヒリズムを徹底的に掘り下げたときの「それでもなお」には、ニーチェ的な逆転の発想を感じることができる。

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