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「ゆがんだ鏡」としての歴史家——野家啓一氏『歴史を哲学する』を読む

イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグは歴史的証拠を「ゆがんだガラス」にたとえています。配布した参考資料を見てください。

まずもっては、歴史家たちはけっして現実に直接にアプローチすることはできないのだということが強調されなければならない。⋯⋯どちらの種類の証拠もゆがんだガラスにたとえることができるだろう。それの内的なゆがみ〔中略〕を徹底的に分析することなくしては、健全な歴史的復元作業は不可能なのである。しかしながら、この言明は反対方向からも読まれるのでなければならないだろう。証拠をそれが指示している対象の次元へのどのような参照もおこなうことなく純粋に内的に読むことも、同じく不可能なのだ。(カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』みすず書房, 2003, 84-85頁)

まさにその通りだと思います。ただ問題は「対象の次元」への参照がどのようなものなのかですが、そのことは後ほど議論することにいたしましょう。付け加えておかねばならないのは、歴史的証拠のみならず、歴史家それ自身がやはり一枚のゆがんだ鏡であるほかはない、ということです。

野家啓一『歴史を哲学する:七日間の集中講義』岩波現代文庫, 岩波書店, 2016. p.186-187.

野家啓一(のえ けいいち、1949 - )氏は、日本の哲学者。専攻は科学哲学。「歴史の物語り論(ナラトロジー)」について講義スタイルで書き下ろされた本書は、野家氏の歴史哲学についての恰好の入門書となっている。野家氏の『物語の哲学』についての過去記事も参照のこと。

野家氏の「歴史の物語り論(ナラトロジー)」の出発点は単純なところにある。それは、歴史は過ぎ去った過去の出来事である以上、その出来事を直接に知覚することはできず、言葉による「語り(narrative)」を媒介にせざるをえない、ということである。この特徴は夢の場合と似ている。夢の存在と夢の語りとの間には、単なる偶然的繋がり以上の密接な関係がある。ウィトゲンシュタインの晩年の弟子であったノーマン・マルコムが指摘しているように「ある人が夢を見たということの基準は、覚醒時にそれを語ること」(Marcolm N, Dreaming, London, 1959, p.49)なのである。

歴史とは、何よりも公共的に認知された過去の出来事にほかならない。その点で、過去の存在と過去の「語り」との間には、夢の場合と同様に密接な内的繋がりがある。しかし、夢と過去を同一視するわけにはいかない。歴史的過去の実在性を支えているのは広義の史料の存在である。歴史家が心血を注ぐのは、まずもって史料の発見、収集、保存ということになる。しかしながら、証拠としての史料が残されているのは、膨大な過去の事実のごくごく一部にすぎない。また、証拠としての史料そのものも「語られた」あるいは「書かれた」ものである以上、過去の事実のありのままを忠実に写し取っているわけではない。そこには語り手や書き手の先入見やイデオロギーが影響を及ぼしているだろう。

このことをイタリアの歴史家ギンズブルグが歴史的証拠を「ゆがんだガラス」に例えている。歴史的証拠には無意的なもの(頭骨、足跡、食物の残滓)もあれば有意的なもの(年代記、公証人証書)もある。しかしどちらの場合も特別の解釈枠組みが必要とされることに変わりはない。いずれも「ゆがんだガラス」のようなものであり、それらは解釈枠組みを抜きに分析することはできないという。

野家氏はこれを敷衍して、歴史家そのものも「ゆがんだ鏡」のようなものであるという。まず第一に、歴史家は過去の一部をなす膨大な歴史的証拠の中から、自分が有意味と認め、価値があるものと判断した史料を選択する。その選択と排除は、すでに一つの解釈である。次に歴史家は、それらの有意味な史料を整合的に理解し、因果的に関係づける独自のプロットを構想する。そこには個々の歴史家固有の視点や史観が否応なく反映される。そして最後に、歴史記述を始めるときには、歴史家はどのような読者に向かっていかなる言語を用いて、どのような文体で書くのかを決定せねばならない。ここでは彼/彼女の人権、国籍、ジェンダー、宗教的信条、社会的地位などを含む発話のポジショナリティが関係してくる。

したがって、歴史記述は幾重にもフィルターを掛けて撮影された写真のようなものである。野家氏が主張する歴史の物語り論とは、このような歴史叙述のパースペクティブ性(視点拘束性)を承認し、前提とするところから出発する。通常の歴史記述においては、そうしたフィルターの存在は覆い隠されており、パースペクティブ性もとりたてて自覚されることはない。物語り論は、歴史記述を背後で支えているそうした制約を明るみに出し、それを自覚化するための分析装置だという。

ただ、この歴史記述の物語り論は、結局歴史とは文学と同じようなフィクションであるということを主張していると誤解されやすい。野家氏はそれに反論し、そうではなく、歴史の物語り論によって言おうとしているのは、歴史記述の限界というよりもむしろその成立条件を示していると主張する。歴史の物語り論の目的は、歴史的事実の「物語(ストーリー)」への相対化ではなく、むしろ歴史記述が成立する「可能性の条件」を解明することにある、というのである。


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