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日本人はなぜ「空気」に動かされてしまうのか——山本七平の思想

戦前の愚行を生み出したとされる「空気」の支配は、戦後のわれわれをも同じように、あるいはよりいっそう強く拘束している。それは日本という文化そのものといってよいアニミズム的なものを基底におく情況倫理によって生きているからなのだと七平はいう。つまり、固定した絶対的なものがないから、「水」も「空気」に転じてしまうのである。
こうしてみると、日本人は「空気」と「水」の相互的な無限循環のなかに閉じ込められているようなものである。

東谷暁『山本七平の思想——日本教と天皇制の70年』講談社現代新書, 2017. p. 139-140.

山本七平(やまもと しちへい、1921 - 1991)は、日本の評論家。山本書店店主。1970年にイザヤ・ベンダサンというペンネームで『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売し、ベストセラーとなる。1977年に『「空気」の研究』を発表。日本人が「空気」に支配されてしまう構造を鋭く分析した。その後、山本七平の実名で数多くの著書を発表し、時代に大きな影響を与えた。山本は学術機関に身を置く研究者ではなく、書店店主という在野の立場でありながら、日本社会・日本文化・日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析し、社会学的にも重要な貢献をした。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。

名著『「空気」の研究』においては、日本人が「空気」に支配され、「空気」を重んじるその精神構造や文化を独自の視点で描いている。戦争中は、例えば戦艦大和の沖縄特攻や、インパール作戦が、合理的な判断を超えて「空気」の影響で決定された。「空気」は現代でも私たちを支配している。「KY」という言葉は「空気」を読むことが現代社会でも求められることを意味している。合理的に考えれば妄想のような認識が、なぜ、日本においては時代を超えて生じてしまうのだろうか。これこそが山本が取り組んだ問題であった。社会科学では「群集心理」や「沈黙の螺旋」の理論、「認知的不協和」の理論などが類似の心理現象を説明している。しかし、山本が追求したのは日本文化に特有の現象としての「空気」であった。

山本の分析は、日本人のアニミズム的な精神傾向からこれを説明している。日本の宗教観は石や木や自然に魂が宿っていて、いたるところに神が存在すると考える。あらゆる物に魔力を感じ、ひいては日常の思考が論理的かつ科学的なものになりにくい。このため、目の前のあらゆる現象を肯定的に受け入れてしまう傾向が強く、欧米人のようにキリスト教で培われた堅固な一神教的論理および倫理を形成できないというのである。

この「空気」から抜け出すためには「水」が必要になる。「水を差す」という表現に表れているように、批判的な気持ちを生み出すもの、妄想から脱し、現実に引き戻すものである。日本においては、軍国主義という「空気」に対して、戦後の平和主義・民主主義という「水」がその役割を果たした。しかし、この「水」は新たな「空気」になってしまう危険性を常にはらんでいる。戦後の平和主義の中で、憲法に手を加えることが絶対悪とされ、軍事について論じることすらも罪悪視するような、新たな「空気」が生まれてしまうのである。

この背景には「固定倫理」なき正義、いわば「情況倫理」が日本人を支配しているからだと山本は論じる。情況倫理とは、確固たる基準・規範にそった倫理観ではなく、その場その場の情況に合わせた倫理観のことである。この倫理観は、自分たちの仲間や味方との同一感を高めるために発動される。こうした中で、日本人はしばしば「正しさ」の根拠を移動させ、固定倫理を持たないがゆえに、「空気」が「水」になり、「水」が「空気」になるという循環運動の中にからめとられることになる。私たちを拘束しているのは「空気」なのだから、それをしっかりと把握しようとしても空気のように逃げてしまう。そして、日本人は「空気」に従うことが本能であるかのように自然にふるまってしまうのである。

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