見出し画像

何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない——メランコリストのための哲学「現代実在論」

ところが、ニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する。何らかの強い意味があってそれが無化される(あるいは、それを積極的に無化する)のではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態——私はこれを「ニヒリズム」とは区別して「メランコリー」と呼びたい。ニヒリズムはつねに無化すべき意味を必要とするが、無化すべき意味すら見つからないのだとすれば、私たちは「欲望の挫折」(=ニヒリズム)ではなく、「欲望の不活性」(=メランコリー)を体験していることになる。(中略)
それに対して、ポストモダン以後、私たちは無化すべき対象を見つけることができない。私たちには社会への蔑みや嘲りもない。その気になればそれなりに人生を楽しむこともできるが、同時に、ある種の生きがたさのようなものも感じている。ならば、現代を生きる私たちの実存感覚は前の世代とは異なるものになっているはずだ。
ニヒリストは伝統的権威に対する「攻撃性」を持ち、あらゆるものは無意味かもしれないという「虚無感」に苦しむが、メランコリストにとっての問題は、欲望の鬱積から出来する「倦怠」と「疲労」、そして、いま手にしている意味もやがては消えていくかもしれないという「ディスイリュージョンの予感」である。要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。あるいは、次のようにも言えるかもしれない。ニヒリズムは絶望の一形態だが、メランコリーには希望も、そして絶望さえもないのだ、と。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書:現代実在論入門』講談社, 2019. p.14-15.

1987年生まれの気鋭の哲学者、岩内章太郎氏による『新しい哲学の教科書:現代実在論入門』より引用。岩内氏は早稲田大学国際教養学部卒業。同大学大学院国際コミュニケーション研究科博士後期課程修了。博士(国際コミュニケーション学)。専門は、哲学。本書が彼の初の著書である。竹田青嗣氏に師事。博士論文は、フッサール現象学についての「思弁的実在論の誤謬」(『フッサール研究』第16号)。

本書の射程は、新しい局面を迎えている現代の「実在論」、つまり「人間以後」の世界を思弁する「ポスト・ヒューマニティーズ」の哲学について解説するものである。具体的には、カンタン・メイヤスーの「思弁的実在論」、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」、チャールズ・テイラーとヒューバート・ドレイファスの「多元的実在論」、そしてマルクス・ガブリエルの「新しい実在論=現実主義」について解説している。こうした現代実在論は、20世紀後半から人文学を席巻したポストモダン思想を超克する試みである。ポストモダン思想は、カント以後の哲学があまりに「人間中心主義」だったとの批判から、徹底した相対主義を目指した。しかし、相対主義に陥ったポストモダン思想もその限界を迎えている。なぜなら、ラディカルな相対主義は、結局のところ「力の論理」を帰結することになるからである。暴力を悪とする根拠すら相対主義では相対化されざるをえず、「力の強いものが勝つ」という自然の論理に対抗できない。

現代実在論は、そうした相対主義に陥ったポストモダン思想をさらに超克しようとする試みであり、反相対主義的立場を取り、哲学における「絶対的なもの」を取り戻そうとする。現代哲学におけるポストモダン思想の終焉と実在論の台頭を「実在論的転回」と呼ぶこともできるだろう。しかし、岩内氏は「時代感覚から読み解くなら、現代実在論は『メランコリーの時代』に現れるべくして現れた哲学である」と言う。岩内氏のいう「メランコリー」とは何か。それは「ニヒリズム」とは似て非なるものである。

ニーチェが100年以上前に「神の死」を象徴的に宣言したが、これは「超越的なもの」の喪失として一般化できる。近代以前を「信仰の時代」、近代を「自由の時代」としてみると、ポストモダンは「ニヒリズムの時代」として規定できる。ニヒリズムとは「もしかすると、あらゆるものは無意味かもしれない」という疑念のことである。ニヒリズムは、世界の一切は無意味であるとと主張するが、この主張の前提にあるのは、かつては何らかの意味があったがそれはすでに失われてしまったということである。例えば、天皇制があってやがて敗戦があったこと、マルクス主義があってやがて学生運動の熱が冷めたこと、大きな物語があってやがて失墜したこと、などである。つまり、ニヒリズムとは「意味喪失の経験」あるいは「意味の無意味化の経験」である。

ところが、ニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する、と岩内氏は言う。何らかの強い意味があってそれが無化されるのではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態、「大きな物語」(リオタール)があってその崩壊を目撃した世代ではなく、そもそも「大きな物語」を目撃しなかった(私たちの)世代が感じている状態である。それを岩内氏は「メランコリー」と呼ぶ。いわば「欲望の挫折」としてのニヒリズムではなく、「欲望の不活性」としてのメランコリーである。社会への蔑みや嘲りもない。その気になればそれなりに人生を楽しむこともできるが、同時にある種の「生きがたさ」「生きづらさ」を感じている。そのような時代感覚、あるいは、現代を生きる私たちの実存感覚である。これが「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という言葉に見事に表現されている。

岩内氏は、このニヒリズムあるいはメランコリーにおける意味の喪失経験は、私たちにとって誤算だったかというとそうではないと述べる。ポストモダン思想は、「大きな物語」に対する不信感から始まった。そしてそれは人間にとっての「絶対的なもの」、つまり超越性や普遍性を台無しにした。しかし、それは誤算だったのではなく、そんなことは分かりきったことだったのだ、という。ニーチェは現代のニヒリズムの到来を100年以上前に予言していた。ニヒリズム、そして続くメランコリーの時代は避けられなかったのであり、人間は「自由の代償」としてそれを選び取ったと言えるだろう。

それでは、私たちはニヒリズムあるいはメランコリーの意味喪失に対して何もなすべきことはないのかというと、そうではなく、それに対する新しい哲学的希望がある、と主張するのが本書である。現代実在論は、例えばガブリエルの哲学においては、伝統的形而上学と構築主義(ポストモダン思想)を調停する「新しい実在論(New Realism)」であると同時に、メランコリストの生きかたの指針となる「新しい現実主義」でもあるのだという。「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望の状況に私たちはどう対処するのか。そのヒントがこの一冊に秘められている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?