見出し画像

禅の根本思想「一即多、多即一」とは——鈴木大拙『禅と日本文化』を読む

「一即多、多即一」という事実の直観的または体験的理解と名づけていいものは、どの仏教各派でも教える仏法の根本義である。般若経の語でいえば、「空即是色、色即是空」である。(中略)禅は否定的、虚無説的ではない。しかし、同時に特殊世界の経験的事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、いっさい空である。絶対的意味における空とは、分析的な論理の方法で達しうる概念ではなくて、竹の直き、花の紅などという体験事実そのままを指すのである。直観または知覚の事実を素直に認めることである。知的作用という外側のものに向わずに、心がその注意を内部に向ける時、一切は空からでて、空に帰することを知覚するのである。

鈴木大拙『禅と日本文化』岩波新書, 1940. p.32-33.(太字強調は筆者による)

鈴木大拙(すずき だいせつ、1870- 1966)は、日本の仏教学者、文学博士である。本名、鈴木貞太郎。名の「大拙」は居士号であり、出家者ではない。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。本書『禅と日本文化(Zen and Japanese Culture)』も元は英語で書かれたものであり、その日本語訳である。禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか、そもそも禅とは何かについて書かれている。序文が哲学者・西田幾多郎によって書かれており、ここだけ旧仮名遣いで書かれているので、最初ビビってしまう。しかし、本文は現代仮名遣いなので安心してほしい。

引用したのは、禅の根本思想である「一即多、多即一」について書いてある部分である。その前に禅の教えは「不立文字(ふりゅうもんじ)」、つまり「言葉に頼るな」ということが強調される。禅、あるいは仏の教えがどんな真理であろうと、それを学ぶには身をもって体験することが必要であり、知的作用や体系的な学説によるのではない。しかし、禅は反知主義ということではない。それは通常の「知」とは異なり、ただ直観的な理解の方法によって達せられるものであり、この直観的知識はあらゆる宗教的信仰の基礎を形成しているという。この種の知識は、深く存在の基礎にまで浸透している、あるいは、我々の存在の深いところから出てくるもであると大拙は説く。

「一即多、多即一」についても、それを「一」と「多」という二概念に分割して、両者の間に「即」を置くといった分析的な理解は間違っている。ここでは「分別」を働かせてはならないという(無分別の分別)。大拙は、私たちが通常知覚したり理解したりしている水準は「特殊的」世界であるが、真理の世界、「空」の世界は、「絶対的」世界という異なる水準にあると述べる。「空即是色」というときの「空」は絶対的世界であり、「色」は特殊的世界、相対的世界にある。したがって、絶対的世界にある真理を知ろうとしたときに、分析的な論理による方法では不可能であり、「直観」による理解が必要となる。つまりは、禅における坐禅もしかり、日常における体験による一瞬間の理解などもそうなのである。

例えば、唯識思想における「阿頼耶識」の発見が偉大なものであり、それがフロイトやユングなど精神分析学における「無意識」とは異なるものであると言われることがある。その理由として、前者はヨーガ行者などが自分の心の内部に注意を向けて直観的に発見したものであり、後者が臨床症例の観察から分析的理解により発見したものであると言われる。現代の科学的考えでは、後者の方が客観的であり、より「真実」に近づけるのではないかと考えてしまう。しかし、禅の考えからは全く逆である。禅の「真理」は、分析的・特殊的水準で到達するのは不可能なのであり、それは体験的・絶対的方法によるのでなければならない、というわけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?