存在の原型=裸形としての〈顔〉——鷲田清一氏『〈ひと〉の現象学』より
鷲田清一(わしだ きよかず、1949 - )氏は、日本の哲学者(臨床哲学・倫理学)。評論家、大阪大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授。京都大学文学部哲学科を卒業し、京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。フッサールや、メルロ=ポンティといった現象学、身体論の視点から、他者、所有、規範、制度などの諸問題を論じる。
引用したのは『〈ひと〉の現象学』に収められている「顔―存在の先触れ」という論考。〈顔〉をめぐる現象学的考察が、哲学者エマニュエル・レヴィナスの思想や画家のジャコメッティの肖像画を軸にして展開されている。
そもそも〈顔〉は対象としてまなざすことができない。対象として見ることができるのは「顔面」である。〈顔〉は見ることができず、〈ふれる〉ことができるだけである。〈顔〉は、さしあたって貼りついてくるもの、それに何らかのかたちで呼応すべく迫ってくるものである。しかしそれを捕らえようとしてまなざしを送り返したとたん、〈顔〉は消え、姿をくらます。わたしはいつも〈顔〉に遅れている。
他者の〈顔〉はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉は持つ。〈顔〉は切迫してくるが、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。レヴィナスによれば、〈顔〉とは消え入ることそのことで現れるということになる。〈顔〉は、消え入るというかたちでしか現れえないもの、不在というかたちでしか現われえないものである、と鷲田氏は言う。これは、隠れることによって何かを現わせる、それ自身は現れないことで現われを可能にするという、現象学者たちが執拗に探求してきたあの「現われの超越論的条件」に酷似しているという。つまり、〈顔〉という現われが〈顔〉の存在そのものでる。〈顔〉は何かの外見でも仮象でもない。〈顔〉こそがあらゆる現象の原型であると言うべきかもしれない。あらゆるものはまずは〈顔〉として現出する。それが顔面や肖像として注視や観察や鑑賞の対象となるのは、〈顔〉としてふれた後でのことである、と鷲田氏は述べる。
レヴィナスは「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(『全体性と無限』)という。同様にレヴィナスは「顔は所有に抵抗する」という。顔は到来するもの、切迫するものとして現れる。〈顔〉とは「見られることへの呼びかけ」にほかならない、とかつて鷲田氏は『顔の現象学』(講談社学術文庫)にも書いている。他者の顔の切迫、あるいはむしろ〈顔〉としての切迫が、わたしの顔を可能にする。つまり、わたしを他者に対して〈顔〉として存在させる。〈顔〉は対象のように見ることはできず、その呼びかけに対しては、それを聴くこと、それに応えることが求められているのであって、対象としてまなざし返すわたしの視線の前では、他者の〈顔〉はすばやく撤退してしまう。
レヴィナスが「顔は所有に抵抗する」ということで斥けたかったこととは、架橋も還元も不可能な他者を「同」(=自己)のうちに占有していくような運動、無名で中立的な集合態の「われわれ」に包摂していくような思考であった。その意味で占有=所有に最後まで抵抗するものとして〈顔〉はある。あるいは、あらゆるものはまずは〈顔〉として現出する。存在の原型(裸形)としての〈顔〉。そのことをレヴィナスは言いたかったのではないだろうか、と鷲田氏は述べるのである。
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