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「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか」という問いこそが重要である——H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』を読む

なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか?
この問いこそが重要なのです。これ以外のすべての神学的な会話は、気晴らしにしかすぎません。例えば、日曜日の新聞のクロスワード・パズルをしているようなもので、うまくことばをはめこめた場合には、ちょっとした満足感を得ることができますが、しかし結局、ほんとうに悩んでいる人びとの心を満足させることはないのです。実際のところ、私が神や宗教について人びとと有意義な話ができたときというのは、この問いから始まったときか、それとも結局この問いに向かっていったときなのです。

H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか——現代のヨブ記』斎藤武訳, 岩波現代文庫, 2008. p.2.

ハロルド・サミュエル・クシュナー(Harold Samuel Kushner, 1935 - 2023)はアメリカのラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)、作家、講師。彼は保守ユダヤ教のラビ総会のメンバーであり、マサチューセッツ州ナティックにあるナティック神殿イスラエルの会衆ラビを24年間務めた。クシュナーは、ユダヤ教徒と非ユダヤ教徒の両方の読者向けに複雑な神学上の考え方をわかりやすく解説した書籍で広く知られている。 彼の最も著名な作品が本書『なぜ私だけが苦しむのか——現代のヨブ記(When Bad Things Happen to Good People)』(1981年)である。彼は本書で、全能で干渉主義的な神の概念に反対し、代わりに苦しむ人々を慰め、癒やす神の役割に焦点を当てている。

本書の冒頭で彼は、私たちにとってほんとうに重要な問いとは「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか」という問いだけであると宣言する。善良な人びとに対する不幸な出来事は、その人たちだけの問題ではなく、正義と不公平と住みよい世界を信じようとするすべての人びとにとって問題である。もっと言えば、その問いは善良な人に限ったことではない。それほど善人でもそれほど悪人でもない、ごくあたりまえで、近所づきあいの良い人が、どうして突然の災難や苦しみに直面しなければならないのか、という問いでもある。

クシュナーは「神の側からみれば、それはすべて公平と秩序におさまっているのだ」という答えに納得がいかない。人生を私たちの側からながめれば、それは独断的で構図もない、まるで裏から見たつづれ織りのようだ。それは神の側からみれば、美しく素晴らしい構図になっており、適切な配置になっているという答えに、クシュナーは明確に否という。現実の問題(例えば、600万人が殺されたホロコースト、幼い子供に突然起きる致死的な病気など)に対する仮定的な解決というものに彼は納得することができない。

それに対する従来の宗教的な答えは、苦難にも意味がある(何かを教えようとしている)のだとか、私たちの信仰の強さを試しているのだとか、より良い死後の世界への解放なのだ、ということだった。こうした仮の答えの数々には、ひとつの共通点があるとクシュナーはいう。それは、苦しみの原因が神にあると考えていることであり、神がなぜ私たちを苦しめるのかを理解しようとしていることである。ここでクシュナーはもう一つの考え方を提示する。それは、神は私たちの苦しみの源ではないのかもしれない、というものである。人生の苦痛は神の意志ではなく、ほかに何か理由があるのかもしれない、と彼はいう。

「正しい人がなぜ不幸に見舞われるのか」というのは旧約聖書のヨブ記の物語の問いにほかならない。ヨブ記は偉大で複雑な物語であり、これまで多くの神学者や哲学者がその解釈をしてきたが、いまだに一つの答えというものはない。クシュナーはまず、この物語に含まれている3つの命題を整理する。それは(A)神は全能であり、世界で生じるすべての出来事は神の意志による、(B)神は正義であり公平であって、人間それぞれにふさわしいものを与える、(C)ヨブは正しい人である、というものである。ヨブ記での議論は、この3つの命題のうち、2つを信じ続けるためにどれを切り捨てるか、をめぐる議論とみることができる。

例えば、ヨブの友人たちは(C)ヨブは善人であるという命題が間違いではないかという議論を展開する。それに対してヨブの論理は、(B)神は公平であるという命題を拒絶するものだった。ヨブは言う、「私たちは、公平など期待できない、理不尽な世界に住んでいるのだ」と。それに対して神はどのように答え、この物語全体は何を意味しているのか。ここでは様々な解釈があるところであるが、クシュナーは、ヨブ記の作者は(A)の命題、すなわち、神は全能であるという信念を放棄しようとしているのではないかと考える。ヨブ記の作者は、ヨブともヨブの友人とも違う立場に立っていることは明らかである。作者は、神が善であることも信じ、またヨブが善であることも信じている。とすれば、神は全能であるという命題が間違いではないかという訳である。

クシュナーはヨブ記を手がかりとして、神を「怒れる神」ではなく「慰める神」というものとして考えることを提唱する。数々の苦難や災難は神が罰を与えたということではなく、それらは神から来るのではないと考えるのが正しいのだと。そう考えるとき、私たちの問いは「神さま、あなたはなぜ私をこんな目にあわせるのですか?」というヨブの問いではなく、「神さま、私のこのありさまを見てください、助けてくださいますか?」という問いに変わるのである。私たちは裁きや赦し、報いや処罰ではなく、力と慰めを求めて神に向かうことができる。神もそうした不条理に対して、私たちと共に嘆き悲しんでくれている。私たちが嘆き悲しむときにも、私たちは依然として神の側にいるし、神もまた私たちと共にいることを知るのである、とクシュナーは語る。




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