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「総括」のこわさ―若松孝二の『実録・連合赤軍』を観る

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を観た。

なかなかヘヴィーな映画である。この映画を観るのは2回目だったが、それでも十分見ごたえがあった。3時間10分あるが、時間を感じさせないほど引き込まれる。

あらすじは以下の通り。

60年代、世界的な潮流の中、日本でも学生運動が大きな盛り上がりを見せていく。革命を旗印に、運動は次第に過激化し、逮捕者も相次いでいく。そんな中、71年、先鋭化した若者たちによって連合赤軍が結成された。しかしその後彼らは、総括により同志に手をかけ、真冬のあさま山荘にたてこもり、警察との銃撃戦を繰り広げることになるのだが...。

この映画で一番心に残るのは「総括」という言葉である。誰か、この映画の中で「総括」という言葉が何回出てくるか数えてほしい。おそらく100回以上は出てくる。(似たような例では、アル・パチーノ主演の『スカーフェイス』では、「f*ck」という言葉が197回出てくる。50秒に1回という計算だ...笑)

山にこもり、自分たちを「革命戦士」として徹底的に鍛え上げるために、連合赤軍の若者たちは、軍事訓練をおこなって肉体を鍛えつつ、メンタルと思想を鍛え上げるためのツールを開発した。それが「総括」だ。

「お前は自分のその行為をどう『総括』するのだ!?」
「『総括』を要求する!徹底的に自己批判して革命戦士として生まれ変わるのだ!」

その「総括要求」は、当初は共産主義思想を練り上げるため、自分たちをさらに高めるためのものという位置づけであったにもかかわらず、徐々にメンバー内での権力闘争、嫉妬、私的な恨みなどに「総括要求」が利用されていくことになる。

例えば、山岳ベースに新たに到着した別グループ(革命左派)に対して、赤軍派の森恒夫が「水筒をなぜ持ってこなかった?」と言って総括要求する場面である。

「君たちはなぜ水筒を持ってこなかった?革命戦士としての意識が低い!君たちに総括を要求する!」

はっきり言うと、笑ってしまう。ここでは森恒夫が連合赤軍内で主導権をとるために総括要求が利用されている。この後も、小学校のホームルームじゃないか?というレベルで総括要求が展開されていく。

「あなた、なぜこんな山の中にまで来てオシャレがしたいの?そういうところブルジョア的なのよ!総括しなさい!」

連合赤軍内で森恒夫と同じく権力をにぎった永田洋子は、遠山美枝子に対して、オシャレをしていることが「ブルジョア的だ」と言って総括要求をする。ここには赤軍派創立メンバーだった遠山に対する権力闘争的な部分と、さらに女性としての嫉妬が重なっていたと思われる。この後、遠山美枝子は自らの顔面を30分殴り続けて、結局は死に至るという悲惨な運命が待ち受けていた。

ほぼ同じ構造であるのが、1966年から10年間にわたった中国での「文化大革命(文革)」である。毛沢東の個人的な権力奪回のための政治運動だったと言われている文革では、紅衛兵という若者たちによって、さまざまな人々が「自己批判」するように要求され、地位を追い落とされ、しばしば命を奪われた。「自己批判」が、連合赤軍内では「総括」という言葉とイコールである。しかし、連合赤軍はわずか数十名の組織内での出来事だったのに対し、文革では国家レベルでこれが10年間も展開したため、文革による死者は40万人に達したとされている(Wikipedia「文化大革命」より)。

この映画を観ると、トラウマレベルで「総括」という言葉が嫌いになってしまう。自分で自分を批判する、これほど苦しいことはない。いや、自己批判することを他者から強要されることが苦しいのだ。そして「思想」というもののために、人を殺すというところまでいってしまうというのもおかしな話なのである。

現代ではこうした極端な「思想」というのは社会から薄れ、暴力的な時代は遠のいたかのようにみえる。しかし「思想」のために、自分たちが「思考停止」に陥ってしまっているとき、私たちは彼らと同じようにならないとも限らないのである。

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