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客観性は世界を見つめる眼差しを覆い隠し忘却させる——レヴィナス『倫理と無限』を読む

自己についての根源的で執拗な反省が、つまり、当然知に課せられているものを大いに疑いつつ、いかなる自発性にも、いかなる既成の存在にも欺かれることなく自己を探求し記述するコギト〔思考〕が、世界と対象=客観を構成するのですが、しかし、世界の客観性は、現実には、その客観性を見つめる眼差しを塞ぎ、遮るのです。思考と志向の向かうべき地平全体へと——この客観性から——たえず遡らなければなりません。客観性はこのような地平を覆い隠し、また、忘却させるのです。現象学とは忘れ去られたそうした思考——志向——を呼び戻すことです。世界に関わる思考の志向へと立ち返る十全的な意識なのです。

エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限——フィリップ・ネモとの対話』筑摩書房, 2010. p.29-30.

エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906 - 1995)は、リトアニア生まれのユダヤ人哲学者。フッサールとハイデガーに現象学を学び、フランスに帰化。第二次世界大戦に志願するがドイツの捕虜収容所に囚われて4年を過ごし、帰還後、ユダヤ人を襲った災厄を知る。ソルボンヌ大学等で教鞭をとる。『超越・外傷・神曲』『時間と他者』『実存の発見』『全体性と無限』など著書多数。

本書『倫理と無限——フィリップ・ネモとの対話』は、1981年にラジオ局「フランス・キュルチュール」で放送されたレヴィナスとフィリップ・ネモとの対談である。対談相手のネモは1949年生まれの政治思想研究者で、このラジオ局で哲学や宗教に関する番組制作に関わっており、本書もその成果の一つである。本書はレヴィナス自身によるその思想の解説と言えるものであり、自らの思想の形成期に「聖書」から文学作品を経て哲学の道へとたどりついた経緯や、フッサール・ハイデガーの思想との出会いが語られ、いくつかの主著が参照されつつ、レヴィナスの重要概念が簡潔に紹介されていく。

引用した第一章「聖書と哲学」では、レヴィナスが「聖書」——「卓越した書物」と呼称される——に魅了された後、文学作品を経て哲学の道へとたどりつく経緯が語られる。ユダヤ的伝統と哲学的思考の微妙な関係からレヴィナス思想の独自性は生み出されるのだが、ただ、彼からすれば、聖書の思想と哲学を適切に調和させるのではなく、むしろ、両者の親近性こそが重要とされる。

レヴィナスはベルクソンの時間論に真新しいものへの出口を見出し、さらに、フッサールの現象学に関心を抱くようになる。レヴィナスは世界に差し向けられた意識の志向性に着目しつつ、諸事物の客観性のみならず、その存在の意味をも把握しようとする。そして同時に、現象学に依拠することで、意識の志向性には還元されえない「他者」の問題が、倫理的な問いとして際立ってくることになり、レヴィナスはここから他者の思想を練り上げることになる。

引用した文章は、フッサールの現象学について説明している部分である。レヴィナスはフッサールの方法とは、第一に「思慮する可能性」、つまり、自己を把握する、あるいは把握し直す可能性であるという。「私たちはどこまで進んでいるのか」という問いを明確に提起し、現状を見極める可能性である。これこそが、そのもっとも広義における現象学であるとレヴィナスは言う。このとき、いかなる既成の存在にも欺かれることなく執拗に反省する自己(つまりデカルトの「コギト」)が世界と対象=客観を構成する。しかし、実際にはこの世界の「客観性」は、その客観性を見つめる眼差しを塞ぎ、遮るのだという。客観性は、ある地平を覆い隠し、忘却させてしまう。その地平とは、思考と志向の向かうべき地平全体である。私たちは、その忘却された地平へと客観性からたえず遡らなければならない。現象学とは忘れ去られたそうした思考(志向)を呼び戻すことなのである、とレヴィナスはいう。

反省する意識は真理を把握するためには不可欠である。しかし、事物の真の境位のなかで、まさにこの境位を、つまり、事物の客観性の意味、事物の存在の意味を照らし出しながら、「存在するものはどのようにして存在するのか」「それが存在しているということは何を意味するのか」という問いに答えることこそが、哲学者の存在意義であるとレヴィナスはいう。それは、たんに「それは何か」(対象を知る「科学」)ということを知るための問いを超えたものなのである。


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