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「ダイバーシティは面白い」の何が問題なのか?——亀井伸孝氏の提唱する「ダイバーシティのその先」

では、なぜ「少数派の包摂」のために「多数派の利益」を強調する言説が横行するのか。背景には、「多数派が少数派の承認権限を専有し続けていると信じている」という問題が存在する。
多数派は、恣意的に世界の分類基準を選定し、「ダイバーシティ」という認識によって自らの既得権益をかたくなに守っている。さらに、しばしば、少数派の存在、尊厳、権利を認めてやるかどうかの権限を、自分たちが専有していると信じている。他者の存在に対する承認権限を掌握し続けようとするよいうことは、言い換えれば、状況が変わればいつでもそれを否認する権限を留保したいと望んでいることでもある。(中略)
その背景には、多数決による民主主義や、多数派の常識が世界を代表するかのようにふるまいうる現実があり、この横暴さを目立たないものとしている。(中略)
私たちは、「利益があるから、他者を承認した方が得策である」という認識ではなく、「利益があるなしにかかわらず、他者を承認してあげましょう」という認識でもなく、「そもそも、他者を承認する/しないといった権限など、多数派には存在しないのだ」という認識へと跳躍することが必要である。

亀井伸孝「補論:ダイバーシティ、その一歩先へ——多様性を語りうるのはだれか」(『職場・学校で活かす現場グラフィー——ダイバーシティ時代の可能性をひらくために』清水展・小國和子編著, 明石書店, 2021. p.249)

本書『職場・学校で活かす現場グラフィー』は、問題がある現場や地域をその背景を含めて総合的に記録し記述することで、新たな気づきや具体的な対応策(またはそのヒント)を得る技法を「現場グラフィー」と呼び、その具体的な事例を記述している書籍である。「現場グラフィー」のアプローチは従来の調査法やフィールドワークのやり方と大きく異なる。現場をなす一人として、誠実な応答をとおして、今、そこにある課題や問題に接近していき、一緒に悩み、考え、対処策を見出そうとするアプローチである。現場と当事者・関係者、そして今そこにある課題を最優先するアプローチを強調している。そのことと深く関連しているのが「ダイバーシティ」の考え方であるという。

本書の補論ではアフリカ地域研究が専門の亀井伸孝氏が、「ダイバーシティ」に関する論点を呈示し、私たちが何気なく使う「ダイバーシティ」には危険も潜むことを鋭く指摘している。亀井伸孝氏は、愛知県立大学外国語学部国際関係学科教授。京都大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。手話通訳士。専門は、文化人類学、アフリカ地域研究。人びとの対等で尊厳ある共存のために、学問をどのように活かしていけるかを模索している。著書に『アフリカのろう者と手話の歴史——A・J・フォスターの「王国」を訪ねて』(明石書店, 2006年, 2007年度国際開発学会奨励賞受賞)など。

亀井氏は、学生だった頃、ある団体のメンバーが「私はこの団体に所属していて良かった。違う学部や専門の人たちが集まっていて、面白いから」と発言したことに対し、かすかな違和感を覚えていたという。それを掘り下げてみると3つの論点が見えてくる。

1つ目の論点は、「ダイバーシティ」という認識の背景には、隠された前提としての分類基準が存在するのではないか、ということだ。簡単にいうと「みにくいアヒルの子」はいかに見出されるかということである。アヒルの集団がいたとして、そこからマイノリティのアヒルを分類する基準は実は無数にある。羽の色だけでなく、大きさ、部分的特徴、形態などである。どの分類基準が選ばれるかというのは、対象にそなわった属性から自動的に導かれる結果なのではなく、明らかに、分類者が自らの認識と価値観において「基準を選んでいる」のである。つまり、「分類とは、分類する者の世界観の表明」なのであるという。

2つ目の論点は、人びとを「ダイバーシティ」として表象する前提としての分類基準を固定し、共有させている視点が存在する、ということだ。これは「リベラル多文化主義の落とし穴」といえる。つまり、私たちが「人びとを包摂しよう」という善意において「ダイバーシティ」と言及してしまうとき、他者を始めから異質な存在とみなす、本質主義的な世界観をもっていないか、ということである。「障害をもつ人も参加できるイベントにしよう」とか「外国人をおもてなししよう」というとき、暗黙に他者を操作可能な対象と位置づける権限を多数派が握っていることが前提として隠されているのである。

3つ目の論点は、人びとを「ダイバーシティ」として表象し、その承認権限を専有しようとする立場が存在することである。多数派が利益を期待する包摂の危険性である。亀井氏が学生のときに「ダイバーシティは面白い」という発言に感じた違和感の背景には、ダイバーシティを受け入れることが「多数派にとって何らかの利益がある」ことが前提とされていたことがあったのではないだろうか。つまり多数派は自分たちにとって利益があるかどうかによって、ダイバーシティや包摂の受け入れに対するふるまいを変えている。結局「少数派の包摂はみんなの利益」などと述べていながらも、実は包摂などしていないのである。

この背景には、「多数派が少数派の承認権限を専有し続けていると信じている」という問題が存在する。多数派は、恣意的に世界の分類基準を選定し、「ダイバーシティ」という認識によって自らの既得権益をかたくなに守っている。さらに、しばしば、少数派の存在、尊厳、権利を認めてやるかどうかの権限を、自分たちが専有していると信じているのである。これは、状況が変わればいつでもそれを否認する権限を留保したいと望んでいることでもある。そして、さらにその背景には、多数決による民主主義や、多数派の常識が世界を代表するかのようにふるまいうる現実があり、この横暴さを目立たないものとしている。

私たちは、「利益があるから、他者を承認した方が得策である」という認識ではなく、「利益があるなしにかかわらず、他者を承認してあげましょう」という認識でもなく、「そもそも、他者を承認する/しないといった権限など、多数派には存在しないのだ」という認識へと跳躍することが必要だと、亀井氏は力説する。これは奴隷制をめぐる議論を考えると分かりやすい。そもそも奴隷と恣意的に決められた人びとの生殺与奪を操作する権限など、誰も持っていないはずだからだ。

亀井氏が挙げた3つの論点は、「ダイバーシティ承認権限の多数派による専有」の問題に収斂する。亀井氏は、徹底した個の権限と権利の承認と受容という原則のもと、「ダイバーシティ」の名において少数派の役割を固定化しようとする多数派からの、「分類する権限の奪還」こそ目指す必要があると強調する。強いられた分類を拒む権利。新しい分類を模索、構築して表明する権利。一部の者たちによる分類の権限の専有から、個々による対等な分有へ。とりわけ、少数派が、分類の権力を行使する多数派に抗し、新しい分類を独自に呈示して、それを対話と交渉の中で承認させていくプロセスへ。これが亀井氏の提唱する「ダイバーシティのその先」の世界観である。



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