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世阿弥の「器」と「曲」——教育にとって本質的なことは何か

ところで、世阿弥の思想の中に、「器」と「曲」という言葉がある(西平、2009)。
「器」は、現代日本語の「基礎・基本・土台」に対応する。世阿弥は「器の上に芸を盛る」という。器が小さいと、いかに稽古を積んでも、その芸の「器量」は小さい。
興味深いことに、世阿弥は、芸を習い始めた後には、この「器」を大きくすることはできないという。芸を習い始めると小細工や器用な技に目が向いてしまい、土台となる「器」を大きくすることができない。必ず芸を習い始める前に、器を大きくすべしというのである。(中略)
もう一つの「曲」という言葉は、「節(ふし)」と対になって用いられる。世阿弥によれば「曲」は習うことができない。習うことができるのは「節」のみである。舞台において最も大切なのは「曲(固有の雰囲気・趣き)」であるのだが、師匠はその「曲」を教えることができない。なぜなら「曲」は「節」のように分節化する(例えば「楽譜」に書き写す)ことができないからである。名人の独特の雰囲気は教授不可能・伝達不可能であり、学ぶ側から言えば、師匠は一番大切なことを教えてくれないことになる。

西平直『ライフサイクルの哲学』東京大学出版会, 2019. p.62-63.(太字強調は原著では傍点)

本書は教育学者・哲学者の西平直氏の2019年の著書『ライフサイクルの哲学』より、「タイムスパンを長くとる・短くとる」という章の引用。教育論である。具体的には、シュタイナー学校の卒業生への「教育の効果」に関する調査から話が始まっている。

しかし、西平氏は、卒業生へのインタビューをしているうちに調査を途中でやめることを決意する。それは、単なる研究者として感じた挫折というよりは、もっと大きな価値転換だった。彼が感じていたのは、本物の「感動」であった。魂が震えるような感動。そして「調査」や「研究」というものがそれを台無しにしてしまうだろうという予感。彼はある卒業生の女性へのインタビューをしながら以下のようなことを感じる。

この人は生きている。こうした思いを内に秘めながら現実社会から逃げるのでもなく、しかし巻き込まれるのでもなく、現実社会との葛藤を我が身に引き受けながら、生きている。
そう思いながら話を聞いていたら、聞き取り調査のことはどうでもよくなってきた。(中略)こうした出会いの相手を「研究対象」とすることに言い様のない違和感を覚えてしまったということである。

(上掲書, p.73-74.)

「教育の成果」とは何だろうか。私たちはあまりにも短いスパンで「成果」なるものを見極めようとしていないか。表層的な「評価」なるものでいつも教育を論じようとしていないか。私たちは学習者の外側だけではなく「内側」を見ようとしているのか。「内側」とは何か。本当の「成果」はいつ、どこに、どのように表れるのか。そういった問いに、西平氏は真摯に向き合っていく。

そして、世阿弥の「器」と「曲」という考え方が参照される。「器」は芸を習い始めると大きくすることはできないというのである。私たちの「器」はいつ形成されたのか。そして、私たちはいつも「技芸」ばかりを教えようとしていないか。本当に大事な「器」を形成する教育とはどのようなものなのか。

西平氏がインタビューをした人びとは、言うなれば「自分の内面を大事にする」という感じがあったという。それはその他にもさまざまな言葉で表現(分節化)されるものの、西平氏はその「何か」は言葉ではうまく分節化できないと感じる。それは言葉で表現できる以上の何かである。そして、それは世阿弥の「曲」の考えにも通じるものだ。私たちは節を教えることはできる。しかし「曲」そのものを教えることはできない。なぜなら、曲は分節化できないからである。しかし、「曲」は常に学習者によって感じ取られているものでもある。それは、私たちの根本的なところに宿っている全体的なものである。つまりは「器」に根ざすものなのだろう。


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