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不可視な機械によって脱中心化される人間——ジジェク『身体なき器官』を読む

コンピュータの進化は不可視性という傾向を示している。光の意味不明な点滅やブンブンと唸りをあげる巨大なマシーンは、私たちの「正常な」環境に埋め込まれている気づかないほど小さな代物にますます取って代わられ、より円滑に作動することが可能となっている。コンピュータは非常に小さくなり、その結果見えなくなって、そこここにあるという意味でいまやどこにもない——それはまた非常に強力となり、その結果、視界から消え去ってしまっている。(中略)こうした私たちの感覚(視覚)的経験という領域からの〔電子装置の〕消失は、見掛けほどには無邪気ではない。このフィリップス社製上着を扱いやすいものにしている特徴(もはや面倒で壊れやすい器械ではなく、私たちの身体にとって疑似-有機的な補綴)は、まさに全能で不可視の〈主人〉といった亡霊のような特徴を上着に与えることになるだろう。機械的補綴は、それによって私たちが相互行為する外部装置以下であるが、生きている有機体である私たちが有する直接的な自己-経験の一部以上の何ものかである——こうして私たちは内部から脱中心化される。

スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』長原豊訳, 河出書房新社, 2004. p.44-45.

スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek、1949 - )は、スロベニアの哲学者。リュブリャナ大学で哲学を学び、1981年、同大学院で博士号を取得。1985年、パリ第8大学のジャック=アラン・ミレール(ジャック・ラカンの娘婿にして正統後継者)のもとで精神分析を学び、博士号(Doctor of Philosophy)取得。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授。ジジェクについては過去記事(ポストコロナの「哲学的革命」——スラヴォイ・ジジェクの『パンデミック』を読む)も参照のこと。

本書『身体なき器官』のタイトルは、哲学者ジル・ドゥルーズの概念「器官なき身体」をもじったものであり、ドゥルーズの諸概念を参照しながら、現代社会や科学・芸術・政治についてジジェクが書いたものである。ちなみに「器官なき身体」(corps sans organes:CsO)とは詩人アントナン・アルトーの言葉をもとにドゥルーズとガタリによって展開された概念である。ドゥルーズ=ガタリが言うには、「欲望する機械」が身体へと有機化されようとするとき、身体はそれに苦痛を感じる。そこで機械は「非有機的な塊」を生み出す。この塊をドゥルーズ=ガタリは「器官なき身体」と呼ぶ。これは主体的な身体以前の身体であり、無限に散乱する欲望のことを指している。私たちが普段主体と呼んでいるところのものは、この「器官なき身体」を分節化することで生まれてくるものだ、と彼らは考えている。これは、デカルト以来の理性主義・人間中心主義を意識したものだ。1970年代のフランスの思想は、意識を主体と見る考えにこぞって反対した。理性や意識、主体といった概念を批判して、無意識こそが真の主体であると論じることで、近代における一切の問題は、その根本において解消されると考えられた。

ジジェクは、コンピュータの進化における「不可視性」に注目しながら、私たちの新たな存在様態(主体)について論じている。現在、さまざまな形で有機的に「不可視」な形で私たちに浸透しているコンピューターは、「全能で不可視の〈主人〉といった亡霊のような特徴」を有している。この不可視の存在によって、私たちは内部から脱中心化される。

このときジジェクは、この不可視なコンピュータの亡霊によって脱中心化される私たちの身体や精神を、否定的に捉えているわけではない。私たちの精神的力能が徐々に「客体的」道具へ外部化されることがいかに人間の潜在能力を奪っているかなどと嘆くのではなく、こうした外部がもたらす解放的次元に焦点を据えなければならないとジジェクは言う。なぜなら、私たちの力能の外部機械による置き換えが深化すればするほど、ますます私たちは「純粋な」主体として出現することになるからだ。というのは、こうした空無化は「実体なき主体性」に等しいからである。これは、デカルト以来の「意識を中心とした主体」概念に対するアンチテーゼである。

古き良きマルクス主義的な表現で言えば、人間はその社会的諸関係の総体(アンサンブル)であり、その意味で、外部化された知性であるコンピュータという道具が、人間と社会的諸関係との総体として私たちに組み込まれている、この人工的実体の領域を分析し、それを捉えていく。つまり、私たちが問題とすべきなのは、知性を対象化する社会的諸関係と人工的な機械による混み入ったネットワークの内部でのみ出現し機能する何ものかとして人間の精神-心なのであると。




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