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死をときほぐす「まぁるい死」——徳永進医師がみた在宅死の姿

理想の死って難しい。死と理想を重ねるのは人間の傲慢かも知れない。もともと、死は生命体が避けたいものの筆頭。そして、避けがたいものの筆頭。だから理想を追う前に死が到着してくる。それどころか虐待での死、事故死、大災害の死、殺人、戦死、拷問死、処刑、暗殺、餓死など、あってはならない死、目をそむけたくなる死が、死の一角を占有している。死は確かに無残なもの、みじめなもの、むごいもの、哀れなもの、悲しいもの、でもある。そして最も自然なものでもある。(中略)
ところが臨床では、死に向かいながら死を咀嚼し、死を解き、ほぐし、溶かす仕草に達する患者さんや家族の姿を目にすることがある。発せられる声、言葉にもやわらなか変化が生まれる。死がまぁるく見えてくることもある。不思議で大切な光景だ。

徳永進『まぁるい死:鳥取・ホスピス診療所の看取り』朝日新聞出版, 2019. p.245-246.(太字強調は筆者による)

前回の記事に続き、鳥取の医師・徳永進医師の著書をとりあげる。医師になって45年、「野の花診療所」を開設し、20年近く在宅ホスピスケアに携わってきた中で、さまざまな患者さんや家族の実際の言葉や臨床を紹介しながら、在宅死について、ケアの行為について深く洞察しているエッセイ集である。

あとがきに、徳永さんが在宅死か病院死かといった二項対立的な考えにとらわれていたとき、ある歴史学者が「どちらであっても〈野の花死〉と呼んではどうか」と言ってくれた話が紹介されている。徳永さんは「死に向かう姿勢が少しやわらぎ、心開かれた」と感じた。死はどこであってもいい。

「かっこいい死」と題されたエッセイがある。ある60代のがん末期の男性が、少年のような顔で徳永さんに「先生、かっこいい死、お願いします」と頼んできた。世の中には「尊厳死」「安楽死」「痛くない死」「安らかな死」という依頼はあるが、「かっこいい死」は初めてだった。どうしよう、と徳永さんは考える。そして、その方の人生の物語を聴いてみる。奥さんは昔看護師として働いていた。子どもがいない二人暮らし。患者さんは小中学生用の自宅学習の教材を売って生計を立ててきた。昔は順調だったが、時代が変わり、乱立する塾に顧客を奪われた。患者さんは「がんばってきたよ俺なりに」と言う。そして「あまりかっこいい人生ではなかった。でも、死はかっこいいのがいい」と言う。徳永さんは「あっ、はい」と思わず答えてから、ふと考える。どんな死ならかっこいいのか。みっともなくない死って何だろう。吐下血なく、痰なく、浮腫なく、てんてんと転がり回らず、長期にならず、ストンとゴールのテープを切るような死か、と徳永さんは思う。でも、一人では決められない、皆と相談せねばならぬ、と思う。

40年以上の臨床経験があり、医師としては円熟の域に達していると思われる徳永さんでも、日々の臨床では迷うことばかりだというのが、この本を読むとよく分かる。診察室の一角には友人の精神科医・浜田晋さんの「臨床メモ」が貼られている。「病気は治ればいいというものではない」とか、「患者さんの言葉をうのみにするな」とか、「臨床は迷い迷いの迷い道」などがある。その中に「三文小説を読もう」という言葉がある。一流小説ではなく、三文小説。くだらない小説。そして徳永さんは「くだらない」ことは大事だ、と強調する。「くだらない」「ろくでもない」「しょうもない」「たわいない」といったことは日常において大事である。その人の仕事が他人への仕えを強く望まれれば望まれるほど、「くだらない」ことが、その人を支えることになっていく。これはユーモアや笑いにも通じる。

多くの人間の死を看取ってきた医師は、人間の死をどう思うのか。死は確かに無残なものである。避けたいものである。しかし、臨床の現場では「まぁるい死」があると徳永さんは言う。「死に向かいながら死を咀嚼し、死を解(ほど)き、ほぐし、溶かす仕草に達する患者さんや家族の姿」にそれがあらわれる。「発せられる声、言葉にもやわらなか変化が生まれる」という。

私も数少ないが、在宅看取りをした患者さんで、自分の死に対する怒りでさまざまな訴えをしていた方が、死期を悟り、自分の死を受け入れた後に、表情がまったく変わり、柔和な姿勢になり、感謝の気持ちを述べられたりしたことが何度かあった。このとき患者さんが見せてくれた姿は、徳永さんが言う「死に向かいながら死を咀嚼し、死を解き、ほぐし、溶かす仕草」だったのだと思う。


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