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沈黙のもつ「聖なる無用性」——マックス・ピカートの『沈黙の世界』を読む

ところが、沈黙は効用世界のそとにある。われわれは沈黙でもって何事かをはじめるわけにはゆかない。沈黙からは文字通り何ひとつとして出てきはしないのである。それは『非生産的』である。だから、それは何らかの価値を認められることがない。
それでも、沈黙からは、他の効用価値あるあらゆるものからよりも一層大きな治癒力と援助の力とが放射しているのである。(中略)それは、もろもろの事物に、あの聖なる無用性から汲みあたえる。何故なら、沈黙自身が、あの聖なる無用性に他ならないのだから。

マックス・ピカート『沈黙の世界(新装版)』佐野利勝訳, みすず書房, 2021年. p.5-6.(太字強調は筆者による)

マックス・ピカート(Max Picard, 1888 - 1965)は、スイスの医師・作家・哲学者。ドイツのユダヤ人家庭に生まれた。ピカートは、ドイツのフライブルク大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学で医学を学び、ミュンヘンで医師資格を取得した。当時の医学界の実証主義的、ダーウィン主義的な方向性に不満だった彼は、1915年頃から医学界から距離を置くようになり、哲学に傾倒。1919年にはスイスに移住し、哲学・思想面での著述活動を始めた。1952年にヨハン・ペーター・ヘーベル賞を受賞した。

ピカートの著書には1948年に書かれた本書『沈黙の世界(Die Welt des Schweigens)』以外にも、1934年の『神よりの逃走(Die Flucht vor Gott)』、1938年の『人間とその顔(Die Grenzen der Physiognomik)』、1946年の『われわれ自身のなかのヒトラー(Hitler in uns selbst)』などがある。

本書『沈黙の世界』では、医師・哲学者として人間の本性について深く考察してきたピカートが、「沈黙」についての哲学的思索を展開する。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」と新約聖書にあるように、人間を人間たらしめるものはまずは言葉であるが、沈黙は言葉と同じかそれ以上に人間にとって重要なものである。沈黙は単なる言葉の欠如なのではなく、言葉以前のものであり、言葉の始原であり、人間の基底をなすものである。

冒頭の引用では、沈黙は現代においては「非生産的」であり「効用性」を持たないものとして見捨てられていることが述べられる。しかしながら、沈黙は効用性を持たないがゆえに、真に価値あるものなのであり、それは「聖なる無用性」とでも言うべきものである、とピカートは言う。

「病と死と沈黙」という章では、医師であったピカートらしい視点で、沈黙と病の関係についての以下のような洞察が述べられている。

病の周囲には、今日でも——この喧騒の世界のなかでも——一種の沈黙があって、医者たちの正しい談話も間違った談話もそれを追い払うことは出来ない。あたかも、沈黙が四方八方から攻めたてられて、病人を隠家としてそこに身をひそめたかのようなのである。沈黙は、たとえば地下墓地のなかに身を匿すようにして、病人たちのもとに生きのびているのだ。

(同書, p.239-240)

1948年の著作でありながら、2021年にみすず書房から新装版として(実に73年の時を経て!)本書が発刊されたことは誠に喜ばしい。この新装版にあたって巻末に掲載されたのが、哲学者エマニュエル・レヴィナスの『マックス・ピカートと顔』という講演録である。ピカートが亡くなった翌年の1966年に、フランス文学青年の会が主催した講演とのこと。ここでは、レヴィナスの代表的な思想「顔の哲学」と絡めて、ピカートの文章を批評しているのも興味深い。

顔の哲学——それがマックス・ピカートの思想の本質的な点だ。顔は単に人格の別名であるだけではない。顔、それはもちろん人格ではあるが、ただし、現出し、外化され、もてなすものとしての人格であり、根本的に誠実なものとしての人格である。(中略)
ピカートの考えるところでは、人間のいかなる介入にも先立つ自然は人間の活動や動揺や喧騒から帰結した秩序よりも人間的な意味を伴っており、この意味——あるいはこの沈黙——は人間にとって必要不可欠である。

(同書, p.265, p.268. 太字は原著では傍点)

ピカートとレヴィナスは実際に会ったことはないようだが、数年にわたって文通を続けていた。世界大戦と数々の悲惨な歴史的出来事を目撃し体験した者同士として、あるいは、人間存在を陳腐なものにしてしまおうとする時代の波にあらがって、人間の本性を哲学的に深く洞察しその尊厳を守ろうとする同志として、二人の間には深い絆ができていたのではないだろうか。



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